第6話 町で見た大きな絵
ある朝、父は僕を連れて町へ向かった。ヴィンチ村から馬車で二時間ほど、石造りの家々が連なる小さな町に入ると、土の匂いから石の冷たい空気へと景色が変わった。普段は畑や丘に囲まれて暮らしている僕にとって、石畳を踏む音や人の往来は胸を高鳴らせるものだった。
父は公証人としての仕事に向かう。契約文を確認し、印章を押す作業に同席させてもらえるのは初めてだった。木の机を挟んで座る商人たちの声は低く、金貨の音がときどき響く。その一音一音が緊張を帯び、僕は思わず背筋を伸ばした。
「書き損じれば財産を失う。だからこそ一字の重さが命を決める」
父の言葉が思い出される。未来で見た美術の大作と違い、ここでは文字と数字こそが力だった。だが、その緊張感はどこか絵を描くときに似ていると僕は思った。線一本の乱れが全体を崩す――そこに通じるものがあった。
昼、父が仕事をしている間、母に連れられて教会へ入った。高い天井、石柱、色硝子の窓から差し込む光。息を呑んだ。村の小さな礼拝堂しか知らなかった僕にとって、それはまるで別世界だった。壁一面に描かれたフレスコ画。青空を背景に、聖人たちが整然と並び、衣の皺が風に揺れているように見えた。
「……大きい」
思わず声が漏れた。筆の跡は近づけば粗く見える。だが少し離れれば、色も形も人を包み込むように調和する。絵は紙の上ではなく、空間全体を支配することができる――その事実に震えた。
未来で見た「最後の晩餐」を思い出す。まだ描かれていないはずのその作品の記憶が、胸の奥を疼かせた。僕の前にある壁画は確かに美しい。けれど、あの未来の食卓の緊張感には及ばない。届かない未来と、目の前の現実。その差が痛みとして押し寄せた。
母は祈りを捧げていたが、僕は視線を天井に釘付けにした。石柱の影と光の筋が交差し、まるで建物自体が音楽を奏でているようだった。壁画の聖人たちは無言の合唱団のように見え、僕は思わず木炭を取り出してスケッチを始めた。紙はなく、持ち歩いていた布切れに走り書きをする。
「レオナルド、今は祈るときよ」
母の声に手を止める。けれど心臓は早鐘のように打っていた。僕は世界の大きさを、初めて体で知ったのだ。
町を離れる帰り道、僕は馬車の揺れに身を任せながら考え続けた。
(絵はただの模写ではない。人を包み、空間そのものを変える力を持つ)
未来で見た大作への憧れは、ますます大きくなる。けれど、その一方で「今の自分には描けない」という痛みも深まった。
夜、寝台に戻っても光の筋や聖人たちの姿が頭から離れなかった。世界は村よりも広く、僕が追いかける未来はさらに遠い。けれど、その遠さが不思議と心地よかった。到達点があるからこそ、道が続いているのだ。