第5話 小さな依頼
村の暮らしの中で、僕の「絵を描く子」という評判は少しずつ広がっていった。羊飼いの少年が仔羊の写生を頼んでくる。市場の女たちが野菜籠を描いてほしいと笑う。僕が木炭を握れば、いつしか周囲には小さな輪ができていた。
ある日、鍛冶屋の親父が僕に声をかけた。
「坊主、嫁に贈るための木箱に模様をつけてくれんか」
木目の表面に簡単な線を引いてほしいというのだ。僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。初めて「飾り」としての依頼を受けたのだ。
粗末な木炭で、花の蔓を描く。葉の先端を細くし、茎の曲線にリズムを持たせる。息を詰めて線を追いかけると、木目の上に小さな庭が広がっていった。鍛冶屋の親父は目を丸くし、口元を隠すように笑った。
「おお……まるで動いているみたいだ」
彼の言葉は素朴だったが、胸の奥を鋭く突いた。未来の記憶にあるレオナルドの作品に比べれば、僕の絵はあまりに幼稚だ。けれど、人を笑顔にできる力が、ここに確かに宿っているのだ。
父はそんな話を聞いても表情を変えなかった。
「村人を喜ばせるのは良いことだ。だが、それで慢心するな」
その声には冷たさではなく、重みがあった。父にとって芸術は契約の補助にすぎない。図や装飾は言葉を補い、信用を保証する道具だ。けれど僕にとっては、それ以上のものだった。
(父の言葉は正しい。でも、それだけでは足りない)
夜、机に広げた木片を見つめながら、僕は思った。芸術は単なる飾りではない。人を動かし、心を震わせ、記憶に残る力を持っている。未来で見た「最後の晩餐」や「モナ・リザ」も、そうやって時代を超えたはずだ。
数日後、村の祭りが開かれた。石畳の広場に屋台が並び、歌声と笛の音が夜空に響く。僕は母と一緒に人混みを歩いていた。すると、鍛冶屋の嫁が僕に駆け寄り、例の木箱を抱えて見せてくれた。
「あなたの描いた花のおかげで、素敵な贈り物になったわ」
その瞳が嬉しそうに輝いていた。僕は思わず言葉を失った。自分の手の震える線が、人の心を照らすことがある――それを初めて実感した瞬間だった。
広場では踊りの輪ができ、子どもたちが松明を振って走り回っていた。焚き火の煙が夜空へ昇り、星々と溶け合う。僕は立ち止まり、その光景を胸に刻んだ。火も煙も人の声も、すべてが一枚の絵に見えた。未来の作品にはまだ及ばなくても、この瞬間の“美”を描き留めたいと思った。
その晩、父は何も言わなかった。母はただ、「よかったわね」と微笑んだ。けれど僕は知っている。喜びは一瞬で過ぎ去る。未来の彼が残した作品は、何百年を越えて人を動かし続ける。僕の絵はまだ、そこに届かない。
寝台に横たわりながらも、僕の耳には祭りの余韻が残っていた。人の声、楽器の音、火のはぜる音――それらが一つの絵のように胸に刻まれていく。僕は目を閉じず、天井を見つめたまま考えた。未来にある完成された絵に追いつくことはできないかもしれない。だが、この村で描いた一線一線が、その未来の背中へ続く道になるのではないか。
芸術は飾りではない。人を動かす力なのだ。その確信だけが、僕を次の朝へと押し出した。
翌日、村の子どもたちが僕のもとに集まってきた。
「箱に描いたって本当?僕の木の笛にも描いてよ」
「私の髪飾りにも!」
次々に声が上がり、僕はたじろいだ。描くことは好きだ。けれど、人の期待が重なると胸がざわめく。未来で見た彼の偉大な作品を思い出し、(僕にはまだ早すぎるのではないか)と怯えた。
それでも手を伸ばした。笛の側面に、蔓草を絡めた小鳥を描き、髪飾りには幾何学模様を彫り込む。粗い線だが、子どもたちは歓声をあげた。
「すごい!ほんとに宝物みたいだ!」
その笑顔に、僕は少し救われた。
父に見せると、彼は静かに首を横に振った。
「軽率に請け負うな。約束は契約と同じだ。果たせなければ信頼を失う」
厳しい声に胸が痛んだが、同時に理解もできた。父の言葉は未来に通じる。芸術もまた、人との約束を背負うものなのだ。
夜、僕は焚き火の残り火を見つめながら考えた。人を喜ばせる線も、人を裏切る線も同じ線で描かれる。だからこそ、慎重でなければならない。未来の彼が作品に込めた誠実さは、こうした土台の上に築かれたのだろう。
その考えを胸に、僕は机に戻り木炭を握った。線を引きながら、祭りで見た光景を思い出す。火を囲んで歌う人々、踊る影、風に揺れる布。すべてが生きて、音を立てていた。描きながら思う。——芸術は一人で完結するものではなく、人々の暮らしの中でこそ息をするのだ。
窓から差し込む月明かりが、描いた花の線を淡く照らした。未熟でも、震えていても、その線が誰かの記憶に残るのなら、それでいい。僕は静かに息を吐き、次の線を板に重ねた。
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