第43話 準備と構想
修道院の食堂の壁に立ち尽くしたとき、僕はまずその広さに圧倒された。
真新しい漆喰が白く広がり、どこから手をつけてよいのか分からなかった。
従来のフレスコ技法では、乾く前に塗り切らねばならず、複雑な光と影を描く余裕はない。
あの岩窟で試みた柔らかな陰影を、この壁に再現するのは不可能に思えた。
(ならば……方法を変えるしかない)
乾いた漆喰に油性の顔料を塗り重ねる実験を始めた。
顔料は深く染み込み、乾きは遅い。
失敗すれば剥がれる危険があったが、それでも試さずにはいられなかった。
次の課題は構図だった。
キリストと十二人の弟子――ただ食卓を囲ませるだけでは、あまりに凡庸だ。
一人ひとりの表情と動きをどう捉えるか。
頭の片隅で、現代に生きていた頃に見た「最後の晩餐」の記憶を探る。
だが、すでにレオナルドとして長く生きすぎたせいか、その輪郭は霞がかっていた。
博物館のパネルで見たはずの構図も、弟子たちの動きも、指の間から砂のように零れ落ちていく。
(頼れるのは記憶ではない。この眼で、今ここで掴み直すしかない)
僕は机に向かい、何度も素描を重ねた。
だが、一人で描く想像には限界があった。
動きは硬く、空気が流れない。
その夜、舞台装置の準備で顔を合わせてきた大工や楽師に声をかけた。
「頼みがある。食卓に座って、しばらく動きを試してもらえないか」
「俺たちがモデルに?」
大工の男は目を丸くしたが、やがて笑った。
「面白そうだな。舞台よりは楽だ」
楽師たちも杯を手に集まり、長椅子に腰を下ろした。
僕は机から板を運び、仮の食卓を並べた。
「驚きの声を上げてみてくれ」
「疑いを顔に出してほしい」
ぎこちなくも、彼らは次々と表情を変えていった。
松明を置き、位置を少しずつ変えてみる。
光が顔を照らし、手を浮かび上がらせ、影が壁に伸びていく。
すると、ただ座っているだけの男たちが、まるで物語の一場面を演じているかのように見えた。
怒りに身を乗り出す者、沈黙に沈む者、疑いに眉をひそめる者。
光がそれぞれの心を照らし分け、集まった視線が中央に導かれていく。
その中心に、まだ姿のないキリストが自然と浮かび上がった。
(これだ……光と構図で心を描ける)
仲間たちは笑いながら席を立った。
「俺たちが弟子役とはな。食堂の壁に残るなら酒の肴にできそうだ」
冗談交じりの声に、僕も思わず笑った。
だが紙の上には、確かに新しい群像の素描が並んでいた。
夜更け、机に広げた素描帳を眺める。
そこに描かれた線は未熟で粗い。
それでも、光に導かれて人々が一つの場に集う感覚は消えなかった。
窓から差し込む月明かりが紙を照らし、描きかけの人物たちを淡く浮かび上がらせた。
その静かな光の中に、これから始まる苦闘の気配が潜んでいた。




