第4話 父の叱責、母の微笑み
父ピエロの机には、常に書類が積み上げられていた。羊皮紙に書かれた契約文、土地の図、取引の記録。僕が少しでも手を伸ばすと、父はすぐに鋭い視線を送ってきた。
「レオナルド、これは遊び道具ではない」
彼の声は短く、重く、揺るぎがない。そのたびに僕は背筋を伸ばし、余白に描きたい衝動を押し殺した。
父にとって文字と数字は、揺らぎのない秩序そのものだった。けれど僕にとっては、線や図形も同じくらい真実を語っていた。余白の影を見つめ、角度を測るだけで、風や光の性質が語りかけてくる。――それをどうしても伝えたくなってしまうのだ。
父にとって文字と数字は、揺らぎのない秩序そのものだった。けれど僕にとっては、線や図形も同じくらい真実を語っていた。ぶどう棚の影や塔の輪郭が、どうしても心に残り、手を動かさずにはいられなかった。
ある日、父が留守の間に、机の端にその風景を小さく描いてしまった。夕暮れの影と、遠くにそびえる塔――子供の拙い線だったが、描かずにはいられなかったのだ。
翌朝、帳簿をつける父の視線がそこに止まった。額に深い皺を寄せ、僕を呼ぶ。
「……誰が机に落書きした」
僕は俯きながら答えた。
「ごめんなさい。ただ、昨日見た影がきれいで……残しておきたかったんだ」
父はしばらく黙り込み、やがて大きくため息をついた。
「まったく、くだらんことを」
そう言いつつも、その跡を拭き取ることはせず、帳簿の端に紙を重ねて隠すだけにした。
けれど、そうした一面は身内だけが知る姿だった。父の厳格さは村人たちの間でも有名で、公証人の言葉一つの曖昧さが裁判を左右することを、誰よりも知っていたからだ。ある日、隣家の子が僕を誘いに来たとき、父は机の上から目を離さずに言った。
「遊ぶなら終わってからにしろ。学びを怠れば、人生で支払う代償は大きい」
その言葉に僕は戸惑った。未来を知っている僕にとって、“遊び”と“学び”は重なるものだったからだ。影を追うことも、水を観察することも、すべては学びの一部だ。それを説明しても父には通じない。胸の奥に小さな壁ができていくのを感じた。
母は違っていた。ある晩、僕が庭で木板に影の図を描いていると、母は灯を持ってそっと近づいてきた。
「そんなに夢中になって、眠れなくなるわよ」
「眠れなくてもいい。今の影を記録しておきたいんだ」
僕が言うと、母は小さく笑った。
「あなたは、目に見えないものまで見ようとするのね」
その言葉に、胸がじんと熱くなった。父の厳格さに押し潰されそうになるたび、母の声が僕を支えてくれた。
翌朝、母は古い布切れを渡してくれた。
「紙が足りないでしょう。これなら好きに使っていいわ」
布の上に木炭を走らせると、紙よりも滲みやすいが、線は柔らかく広がった。空気の揺れをそのまま吸い込むような質感。僕は夢中で影と光の境界を描き写した。母はしばらく黙って見ていたが、最後にこう言った。
「その線は、きっとあなたを遠くへ連れて行く」
父と母の差は日々大きく感じられた。父の机に並ぶ秩序。母の手から差し出される自由。二つの力が僕の中でせめぎ合っていた。
(未来の彼は、この両方を身につけていたはずだ。だから、あの精緻な図面も、あの柔らかな絵も描けたのだ)
けれど、僕はまだどちらにも偏ってしまう。父に叱られると怯え、母に微笑まれると舞い上がる。子供の心のまま、偉大な未来を背負わされている。矛盾と未熟さが、胸を締めつけた。
また別の日、母と一緒に市場へ出かけた。母は野菜や布を選びながらも、僕の視線が別のものに吸い寄せられていることを察していた。
「また、商人の手を見ているの?」
「うん、重さと値段の釣り合い方を考えてた」
「本当に、心が忙しい子ね」
母は笑い、代金を払うとき、わざと秤の皿を僕に向けてくれた。金貨の重みが皿を傾け、分銅がわずかに揺れる。僕はその微細な揺れに見入った。母は支払いを済ませながら、小さく囁いた。
「人のやり方を観察するのも大事。でも、自分のやり方を忘れないでね」
その言葉は、父の「秩序を守れ」とは真逆に聞こえた。だが二人の声はどちらも僕を縛るのではなく、両側から引っ張って均衡を保っているようだった。
村の若者に混じって草原を駆け回ることもあった。彼らは力比べを楽しみ、石を遠くへ投げ合った。僕も挑戦したが、非力な腕では到底勝てない。その代わりに、落ちた石の角度や跳ね方を観察した。
「また考えごとか?」と冷やかされても、僕は笑って答えた。
「考えてるんじゃない、見てるんだ」
その言葉に彼らは首をかしげたが、僕の胸の中では確かな火が燃えていた。未来のダ・ヴィンチに追いつくには、力ではなく観察が武器になる――その確信だ。
その夜、寝台に横たわると、天井の梁の影がゆっくりと動いていた。影は時を刻む。数字にも、線にも、絵にも変えられる。だが僕は知っている。未来で見た彼の作品には、この程度の観察では届かないのだ。
「追いつけるだろうか……」
小さく呟いた言葉は、夜の闇に溶けて消えた。けれど、不安と同じだけ、心の底で灯が燃えていた。父の厳しさも、母の優しさも、その灯を消すことはできない。