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第32話 旅路

フィレンツェを後にした足取りは、想像していたよりも重かった。

背には素描帳と道具の入った袋、そして未完の板を残してきた記憶。

鐘の音が遠ざかるにつれて、心の中の空白が広がっていく。


筆を持つことはできなかった。

だが歩を進めるうちに、景色が次々と変わっていくのを目にして、胸の奥に少しずつ別の感覚が芽生えていった。


トスカーナの丘陵は春の緑に覆われていた。

オリーブの葉が銀色に光り、糸杉の列が空を縫うように続いていく。

羊の群れを追う少年の声、遠くの修道院から響く鐘。

それらが混ざり合い、途切れがちだった心のリズムをゆっくりと整えていった。


(絵が描けなくても……世界は変わらずに広がっている)


素描帳を開こうかと何度も思った。

だが木炭を走らせる勇気は出なかった。

かわりにただ、目に映る景色を心の奥に刻み込んでいった。


丘を越えると、道はやがて広い平原へと続いた。

ロンバルディアへ向かう街道は、商人や旅人で賑わっていた。

馬車の軋む音、香辛料を積んだ袋の匂い、布を売り歩く声。

フィレンツェの市場とも違う、旅路ならではの混沌だった。


夜、宿に身を寄せると、焚き火の煙が衣服に染み込んだ。

星空の下で耳にしたのは、異国の歌を口ずさむ旅人の声。

意味は分からなくても、その響きが胸の奥に静かに広がった。

不思議と、描けないことへの痛みが少し和らいでいった。


数日が過ぎ、道はアルノ川を離れ、ポー川へと続いていった。

水面は広大で、光を受けて鏡のように輝いている。

川を渡る風は柔らかく、乾いた心を洗うように頬を撫でた。


未来で見た絵や機械の数々――その理想に縛られている限り、筆は動かない。

だが、いま目の前にあるこの川の流れや丘の稜線は、理想ではなく現実だ。

ただそこにある姿を、胸に刻むだけでよいのかもしれない。


ミラノはまだ遠い。

だが旅の途中で目にした風景は、止まっていた心を少しずつ動かしていた。


夜明けの光に照らされて広がる平原を見たとき、僕は久しぶりに深い呼吸をした。

その息は、白い板の前で止まっていた呼吸とは違い、自由で、途切れることなく続いていた。


(まだ描けない。だが――歩くことはできる)


そう思えただけで、旅路の重さがわずかに軽くなった。

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