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第31話 旅立ちの決意

《東方三博士の礼拝》の板を前に、筆を持つことができなくなってから、季節がいくつも過ぎた。

描きかけの群衆は止まったまま、色も線も途切れて乾ききっている。

依頼主は不思議と急かさず、僕は小さな肖像画や装飾の仕事で日々を繋いでいた。

だが大作の影は常に背にのしかかり、筆を握るたびに手を止めさせた。


そのあいだ、僕が没頭していたのは別のことだった。

木片を削り、歯車を組み合わせ、糸で動かす仕掛けを試した。

祭礼で使う舞台装置を改良し、幕を一気に引き上げる滑車を考えた。

また、仲間に頼まれて弦楽器を調整したこともある。

未来で学んだ工学の記憶が、眠っていた手を別の方向に動かしていた。


(絵を描けないなら、せめて作ることを止めたくはなかった)


作業机には素描ではなく、歯車の図や水路の断面図が散らばった。

工房で学んだ「自然を師とせよ」という言葉は、筆ではなく仕掛けを通して形になろうとしていた。


ある日、メディチ家の館に呼ばれた。

豪奢な織物と香の匂いに包まれた広間で、ロレンツォ・デ・メディチが僕を見つめた。

「君の名は、天使を描いた画家として広まった。だが、それだけではないらしいな」

彼の前には僕が描いた水路や投石機の図面が並べられていた。


ロレンツォはしばらく図面を眺め、口元に笑みを浮かべた。

「ミラノ公ルドヴィコが、腕の立つ技術者を欲している。芸術家であり、工匠でもある者をな」


そして椅子の背にもたれ、軽く手を振った。

「いいか、レオナルド。興味があるなら路銀は私が出そう。

 気に入らなければ戻ってくればいい。

 この街はいつでもお前を迎える」


その言葉は石畳を踏む足をふいに揺らすようだった。

逃げ道を残しながらも、前へ進めと背を押す声――それがロレンツォのやり方だった。


夜、自分の工房に戻り、机の上の板を見つめた。

《東方三博士の礼拝》は、筆を伸ばすことなく時を止め続けている。

未来で見た未完の絵は、この現実に重なっていた。


窓を開けると、アルノ川から夜風が流れ込み、紙片を揺らした。

歯車の図、舞台装置の設計、音楽の断面図――。

描かれているのは絵ではない。

それでも、自分の中で確かに「創造」は続いていた。


(ミラノなら……新しい形でこの手を試せるかもしれない)


出立の日、荷物は少なかった。

数冊の素描帳と図面、必要最低限の道具、師から託された紹介状の控え。

振り返れば、フィレンツェの赤いドームが朝の光に浮かび上がっていた。


未完の大作を残したまま去ることは、逃げにも思えた。

だが同時に、そこに立ち止まり続ければ、自分は枯れてしまう。


鐘の音が街を震わせる中、僕はフィレンツェを後にした。

行き先はミラノ。

絵筆と歯車の両方を抱えて――。

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