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第3話 観察する少年

 ヴィンチの村での生活は、ひとつひとつが学びに満ちていた。丘の上からは葡萄畑が波のように広がり、朝露を含んだ葉が光を反射してきらめく。羊飼いの少年たちが笛を吹き、谷を渡る風が旋律を運ぶ。その中で僕は、ただ眺めるだけではなく「なぜこう見えるのか」を考えずにはいられなかった。


 ある朝、近所の子どもたちと小川で遊んだ。石を投げ入れると、円を描く波紋が幾重にも広がっていく。ほかの子たちは跳ねるカエルや水飛沫に歓声を上げていたが、僕は立ち止まって波紋を凝視した。

 (中心から距離が二倍になると、波の間隔も広がる。)

 膝を濡らしながら石をいくつも投げ、距離を測ろうと試みる。すると後ろで友人のマルコが首を傾げた。

 「レオナルド、お前は遊ばないのか?」

 「遊んでるよ。ただ、石と水の遊び方が違うだけ」

 僕の答えに彼は笑ったが、その目には少し戸惑いも混じっていた。


 村人の目から見れば、僕はやはり風変わりだったのだろう。母に連れられて市場に行ったときも、僕は商品よりも秤の揺れや商人の手さばきに釘付けだった。

 「君は値段よりも、秤の影を見ているのかい?」

 商人にそうからかわれ、僕は頬を赤らめた。母は「ごめんなさいね、この子は変わっているんです」と笑って答えたが、僕は内心むしろ誇らしかった。変わっていることこそが、自分の武器のように思えたからだ。


 父は時折、僕に小さな課題を与えた。ある日、ぶどう棚を見上げながら言った。


 「この棚の高さを量ってみろ。道具は使うな。手でだ」


 僕は片目をつぶり、腕を伸ばして親指を立てた。親指の先と地面の位置を基準にし、目の前の棚と比率を作る。ほんの少し体を後ろに下げ、親指の長さと棚の高さが重なったところで、心の中で寸法を換算した。


 「……人の背丈より、ひと握り高いくらい」


 父は棚に縄を垂らして確かめると、驚いたように小さく笑った。


 「なるほどな。子供の遊びにしては正確だ」


 胸が熱くなると同時に、冷や汗も滲む。未来の記憶を知る僕は、どこまで“普通”でいられるのだろう。


 けれど、夜になると胸に別の痛みが広がる。

 未来で見たレオナルドのスケッチ。筋肉が束ねられ、渦が紙の上で永遠に回転するあの絵。比べれば、僕の線はあまりに拙い。現代の芸大で練習した頃の方がまだ整っていたかもしれない。幼い指は思うように動かず、筆も粗末で、思考に線が追いつかない。


 (これでは……あの絵には近づけない)


 眠れない夜、板に木炭で必死に線を重ねた。曲がり、滲み、崩れるたびに心がざわめく。けれど諦めたくはなかった。未来を知っているからこそ、その未来の自分に少しでも近づきたかった。


 ある日のこと。丘の斜面に座り込み、葡萄畑を見渡していると、風が葉を一斉に揺らした。太陽の光が葉裏を透かし、緑の波が斜面を駆け下りていく。僕は思わず立ち上がり、声を漏らした。

 「世界は……生きた教科書だ」

 目の前の光景が、僕に語りかけていた。ここには法則があり、形があり、音楽のような調和がある。すべてが知識となり、すべてが学びに変わる。


 マルコが不思議そうに近づいてきた。

 「なにを言ったんだ?」

 「ううん、ちょっとした秘密さ」

 僕は笑って答えた。未来を知る僕にとって、それは本当の意味での“秘密”だった。


 しかし、胸の奥では小さな棘が刺さり続けていた。未来の彼が描いた解剖図、建築図面、そして絵画――それらの記憶はあまりに鮮烈で、今の自分の線との落差を突きつける。友人たちが「すごい」と口にしても、その称賛がかえって苦しかった。彼らが知らない未来の完成形を僕だけが知っていて、なおそこに届かないのだから。


 ある晩、村の若者たちに混じって焚き火を囲んだ。彼らは歌を歌い、葡萄酒を回し飲みしながら笑っている。僕も誘われたが、つい焚き火の中の木片に目を奪われた。赤から橙、やがて灰へと変わる色の移ろい。炎の舌が木目を舐めていく速度。頭の中で数字と線が踊り出す。

 「また考えごとか?」

 マルコが肘でつつき、笑った。僕は思わず口をつぐんだ。彼に未来の知識を語るわけにはいかない。だが、孤独を感じたのは確かだった。


 父にも相談できない思いがあった。彼の目はいつも厳格で、契約や数字に曖昧さを許さない。ある日、勇気を出して「僕は絵で真理をつかめると思う」と言ったら、父は短く答えた。

 「真理は言葉と数で残すものだ」

 突き放されたように感じたが、その夜になって父の机の端に小さな測量図が描き残されているのを見つけた。そこには僕が昼間に話した影の比率が線で引かれていた。無言の承認。それを知ったとき、胸の痛みは少し和らいだ。


 母は違った。彼女は僕の奇妙な観察や落書きを咎めるどころか、時折「その目は宝物よ」と言って微笑んだ。母の言葉は慰めであり、同時に大きな支えだった。未来のレオナルドが人々から「好奇心の怪物」と呼ばれたとしても、その出発点にはきっとこうした小さな理解があったのだろう。


 その夜、木板の上に波紋や影の図を描きながら、僕は決意を新たにした。

 未来の彼にはまだ届かない。だが、観察を重ねれば少しずつ近づけるはずだ。

 目に映るすべてが教材であり、矛盾も焦りも、僕を前へ押し出す力になる。


 世界は閉じられた書物ではない。生きた教科書として、今この手の中にあるのだ。


――――――


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