第23話 驚きとざわめき
完成の時は思いのほか早く訪れた。
祭壇画《キリストの洗礼》は、幾人もの手を経て少しずつ形を整え、ついに全体像を現した。
中央に立つキリスト、頭上から水を注ぐ洗礼者ヨハネ。
背景には流れる川と岩、天から射す光。
そして脇に立つ二人の天使。
僕が描いた左の天使は、まだ乾ききらぬ色彩をまとい、静かに微笑んでいた。
完成披露の日、工房はいつになく緊張していた。
弟子たちはそれぞれの机を片づけ、師が作品を中央に据えると、皆が無言で見守った。
「……」
最初に息を呑んだのはマルコだった。
小声で「綺麗だ」とつぶやき、慌てて口を押さえる。
アントニオは腕を組んだまま、険しい目で画面を睨んでいた。
「線が……違う」
彼は言葉を探すように口を開いたが、それ以上続けられなかった。
ピエトロは口の端を上げて笑った。
「師が描いたのとは調子が違うな。浮いてるようにも見える」
だがその声には皮肉よりも苛立ちが混じっていた。
ロレンツォはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと漏らした。
「……目が離せない」
工房の空気はざわめき、皆の視線が師に集まった。
ヴェロッキオ師は長く沈黙したまま作品を見つめ、やがて深く息を吐いた。
「これは……」
声は低く、誰もが次の言葉を待った。
「これは私の筆ではない」
その一言に、空気が震えた。
師はゆっくりと画面に歩み寄り、天使の頬に指をかざした。
「柔らかさがある。光が息をしている。私にはない筆だ」
アントニオが顔を赤くし、ピエトロは視線を逸らし、ロレンツォは唇を噛んだ。
マルコだけが満面の笑みを浮かべ、僕を振り返った。
「やったな、レオ!」
僕は言葉を失った。
自分の線が確かにここにあり、師の言葉がそれを示している。
だが同時に、現代で見た《キリストの洗礼》の天使の姿が頭をよぎった。
そこにあった繊細な光、溶け合う空気の柔らかさ――目の前の絵はそれと微妙に違っていた。
「ダ・ヴィンチらしさ」は確かに芽吹いている。
けれど、未来で僕が憧れたあの完成形には、まだ遠い。
(僕は……あの彼に近づけているのか? それとも、ただ似て非なるものを描いているだけなのか?)
その夜、工房には遅くまでざわめきが残っていた。
笑い声、押し殺した囁き、羨望と不安。
誰もが同じことを感じていた。
一枚の天使が、工房の空気を変えてしまったのだ。
だが僕の心には、歓喜と同じだけの迷いが静かに広がっていた。
ダヴィンチが描いた天使をみてヴェロッキオは筆を折ったなんて後世に創作された逸話も……
多才だったヴェロッキオの専門は実は彫刻
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