第22話 天使の制作
白い下地の上に薄い顔料が広がり、筆が震えを残して進む。
机に向かった僕の前には、天使の姿が形になりつつあった。
《キリストの洗礼》。
中央に立つキリスト、その頭上に水を注ぐ洗礼者ヨハネ。
画面の端には二人の天使が並び立ち、視線を中央に導く。
僕が任されたのは、その左の天使だった。
最初は小さな試みとして与えられたはずだった。
だが筆を重ねるほどに、その存在感は大きくなっていった。
柔らかな衣を描くとき、筆は自然に動いた。
麻布の重なりを透かす光、柔らかく落ちる影。
未来の記憶にあった素描の感覚が指を導き、衣の襞は風に揺れるように広がっていった。
髪を描くときは一層息を詰めた。
波打つ一筋一筋に光を宿し、暗がりへと溶け込ませる。
輪郭は固めず、空気に溶けるように。
(輪郭は閉じ込める枠じゃない。息をするための境目だ)
後ろから覗き込む視線に気づいた。
アントニオだ。
「……妙に柔らかい線を引くな」
声には驚きと苛立ちが混じっていた。
ロレンツォは鼻を鳴らした。
「気取った線だ。師の仕事に混じれば埋もれるさ」
だが、彼の目は紙から離れなかった。
マルコは隣で顔料を練りながら小さく囁いた。
「いいな。お前の線、俺には分かる」
その言葉が背を押した。
数日が過ぎ、画面は少しずつ形を整えていった。
中央のキリストやヨハネを描く師の手は正確で力強く、他の弟子たちは背景や装飾を黙々と仕上げていた。
だが天使に筆を置くたび、工房の空気がわずかに変わるのを感じた。
筆を止めると、誰かの視線が集まっている――そんな気配があった。
ある夕暮れ、ヴェロッキオ師が背後に立った。
僕の描いた天使をしばらく見つめ、何も言わずに立ち去った。
その沈黙は叱責でも賞賛でもなかった。
けれど工房の空気が一瞬で張り詰め、仲間たちが互いに視線を交わした。
夜、工房に残り、完成しつつある天使を見つめた。
柔らかな頬に光が宿り、衣の皺が空気に溶け込む。
描いた自分でさえ、そこに生きた気配を感じていた。
(この線は……僕自身のものだ)
墨と顔料の匂いに包まれながら、その確かさは、心の奥に小さな石を置いたように動かず、静かにそこにあった。




