第21話 大仕事の始まり
年月は静かに積み重なっていった。
壁際に掛けられた素描は増え、机の上の紙には幾重もの線が刻まれている。
かつて震えていた指は今や迷いなく動き、硬かった線は少しずつ柔らかさを帯びてきた。
アントニオやピエトロに笑われても動じなくなり、ロレンツォの皮肉には苦笑で返す余裕が生まれた。
マルコとは肩を並べ、互いの紙を見せ合っては笑い合う日もある。
(まだ未熟だ。けれど“新入り”ではなくなった)
そんなある日、工房に大きな知らせが舞い込んだ。
「メディチ家の依頼だ」
年長の弟子が声を上げた瞬間、空気がざわめいた。
依頼は祭壇画――《キリストの洗礼》。
ヴェロッキオ師が中心となり、工房全体で取りかかることになった。
弟子たちの目が輝き、机の上に羊皮紙や木板が次々と並べられる。
師は全体の構図を示し、弟子たちに分担を告げた。
「背景はアントニオ。岩と水を描け」
「衣の細部はピエトロとロレンツォに任せる」
そして、僕に視線を向けた。
「レオナルド。お前は――天使を描け」
一瞬、工房の空気が止まった。
「天使だと?」
アントニオが驚いた声を上げ、ピエトロは鼻で笑った。
「まだ若造に……」
だが師はそれ以上言わせず、静かに言葉を重ねた。
「描かせてみたい」
その一言に、胸が跳ねた。
任されるのは単なる端役ではない。
画面の片隅に立ちながらも、全体の調和を支える存在――天使。
(師は僕の線を試そうとしている……)
その日から工房は慌ただしくなった。
アントニオは岩肌を刻み、ピエトロは衣の皺を追い、ロレンツォは金箔の準備に取りかかった。
マルコは顔料を練りながら僕の方を見て、にやりと笑った。
「やったな、レオ。天使だぞ」
「……重すぎる役だよ」
「だからこそ面白い」
不安と高揚が胸の中でせめぎ合った。
夜、工房に一人残り、天使の素描に取りかかった。
柔らかな衣、波打つ髪、光を受ける頬――。
木炭の線が走るたびに胸の奥に緊張が広がる。
これは自分のための練習ではない。
師の名を背負い、工房全体の未来を映す一枚だった。
アルノ川を渡る風が窓辺を抜け、紙の端を揺らした。
筆を止めたとき、指先は黒く汚れ、心臓は早鐘を打っていた。
(この線が、明日には誰かの目に晒される……)
作業台に素描を広げたまま、深く息を吐いた。
風の冷たさと墨の匂いが、すでに次の道を告げていた。
祭壇画――《キリストの洗礼》は実在します。
気になる人は調べてみてね




