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第2話 幼少期――トスカーナにて

 レオナルドとして目を覚ましてから、季節がひとつまたひとつと移ろっていった。ヴィンチの丘は、朝になると薄い霧に包まれ、太陽が昇るころにはオリーブの葉が銀色にきらめく。糸杉は針のように空へ伸び、石造りの家々が赤土の斜面に点在している。――資料集の写真でしか知らなかった「トスカーナの風景」は、いま目の前で風を吸い込み、鳥の声に震えていた。


 父ピエロは公証人で、村では顔が広い。市場の日になると、彼は僕の手を引いて広場へ出かけた。葡萄の甘い香り、焼きたてのパンの皮が割れる音、羊乳のチーズに刺さる小さなナイフの銀色。リラや笛の旋律が混じり合い、石畳は午前の日差しに熱を帯びる。幼い体の僕には、世界すべてが大きすぎて眩暈がするほどだった。


 「レオナルド、商人の手元を見てごらん」

 父の言葉に目を凝らす。秤に吊るされた分銅、指で弾かれた天秤、計量を終えるたびに刻まれる客の満足そうな笑み。――そこにあるのは算術と信頼、そして人の暮らしを支える仕組みだった。芸大生だった僕は、思わず頭の中で線を引く。支点、作用点、力点。秤の動きは、未来の機械の図面へと直結して見えた。


 午後は葡萄畑の縁を歩いた。摘果の終わった房が、薄い影を地面に落としている。農夫が教えてくれた。

 「いい葡萄は、枝じゃなくて土の顔をしてる」

 「土の顔?」

 「雨の記憶、風の癖、岩の機嫌。全部、粒に出るのさ」

 その言葉が胸に刺さった。形の裏にある理由――僕が追いかけてきたものだ。


 夕暮れ、僕は木炭を握る。だが紙は高価で粗い。現代のスケッチブックのようにはいかない。線を重ねるとすぐに滲み、消しゴムもない。透視図法の消失点を取ろうと糸を張れば、母に「洗濯紐は返して」と笑われる。知識はあるのに、手段が足りない。喉の奥に、小さな焦りが刺さる。

 (頭ではわかっているのに、指先が追いつかない……それに、紙が、インクが――)

 僕は歯を食いしばり、線を薄く、軽く、何度も往復させる。滲む手前で止め、呼吸と一緒に刻む。未熟さと制約を足場にして、別の登り方を探すのだ。


 ある日、父の用で村外れの岩場へ向かった。石灰岩の壁面から清水が滴り、苔が日光を拾って翡翠色に輝く。洞の口はひんやりと湿っていて、奥からはコウモリの羽音がかすかに聞こえた。光が斜めに差し込むと、気泡を含んだ水が七色に分かれ、壁に小さな虹が生まれる。

 (光は形を撫でる。水は形を削る。時間は形を変える)

 僕は地面にしゃがみ込み、滴る水を目で追いながら、頭の中でスケッチを重ねた。雨粒が岩を穿つ速度、苔の広がる方向、陽の角度。――観察がそのまま式になり、図になり、音楽の拍のような規則を刻む。


 村の鍛冶屋にも通った。火床の赤が呼吸するたび、鉄はオレンジから白へ、そして鈍い灰へと移ろう。ハンマーが下りる瞬間、筋肉の張りが腕から肩へ、背へと伝わる。振り下ろしの角度はわずかに変化し、打撃の跡は波紋のように広がっていく。

 「レオナルド、離れていろ。火の粉は熱い」

 鍛冶屋の声に頷きつつ、僕は目を逸らさない。火は危険だが、形を作る。危険と創造が、ここでは一本の針金で結ばれている。


 夜になると、丘の斜面に灯が点る。葡萄の蔓の向こうにホタルが浮かび、天の川と地上の光が相互に呼び合う。母が隣で囁いた。

 「今年はホタルが多いわね」

 「どうして?」

 「知らないの。けれど、よく実った年はホタルも多いのよ」

 科学的な根拠はわからない。けれど、自然の観察はまず関係の発見から始まる。僕は頷き、指先で空の星座をなぞった。胸の奥に、静かな火が灯り続ける。


 ――しかし、胸の火は同時に僕を焦がした。現代で見たレオナルドのスケッチ群。皮膚の下で筋肉がどのように束ねられ、腱がどのように骨に付くか。あの精度には、今の僕は一歩も届かない。紙を破くたび、自分の未熟さが音を立てる。

 (僕は“レオナルドになってしまった”のに、まだ彼に及んでいない)

 その矛盾は、笑ってしまうほど残酷だ。けれど、だからこそ、前に進む理由になる。


 翌朝、僕は母に頼んで古布をもらい、炭と骨片で即席の練習板を作った。紙がないなら、板に描けばいい。筆がないなら、削った葦で代用すればいい。線は荒く、道具は不格好だが、観察の目だけは鮮明でいられる。

 「あなた、ほんとうに変わった子ね」

 母は笑い、庭で干していた洗濯物を風に揺らした。糸杉の影がその白さを斜めに横切る。影の輪郭が風に合わせて柔らかく揺れるのを見て、僕は“スフマート”という言葉を思い出した。空気の厚みで輪郭を曖昧にする、あの技法。――頭の中では言葉にできるのに、手がまだ追いつかない。


 午後、父が小さな計算の課題をくれた。測量のための簡単な図形問題だ。僕は思わず目を輝かせた。三角形の辺の比、影の長さから高さを割り出す方法。棒と糸と日差しだけで、世界の寸法が測れる。指先と太陽が、一本の定規で繋がる瞬間だった。

 「よくできた。だが慢心はするな」

 父は短く言い、僕は息を吸い直す。慢心するほど上手くいっているわけでもない。むしろ、わからないことの方が多すぎる。


 その夜、僕は庭の片隅で小さな実験をした。水槽などないから、代わりに浅い鉢に水を注ぎ、指で渦を作る。表面に油を一滴垂らすと、光の縞が走った。月明かりが波の山と谷で裂かれて、壁に揺れる模様を描く。

 (渦は、縮小しても同じ形を保とうとする……いや、保とうと“見える”。なぜだろう)

 答えは出ない。けれど、問いは確かに残る。翌朝の僕の手を、鉛のように重く、火のように軽くする――そんな種類の問いだ。


 眠りにつく前、粗末な木板に今日の線を重ねた。線の合間に、心の声を小さく書き込む。

 「できないことの大半は、道具が原因。でも、道具のせいにしてはいけない」

 「観察は、紙がなくてもできる」

 「わからないことは、次の線の理由になる」

 書き連ねた言葉は、未来の僕が見れば笑ってしまうほど青臭いだろう。けれど今は、これがたしかな羅針盤だ。


 こうして僕の幼年期は、観察と不器用な実験と、ちいさな失敗の連なりで満ちていった。世界は閉じられた教室ではない。丘も、洞も、影も、母の笑い声も――すべてが開かれた教材として僕の前にあった。完成されたレオナルドの背中は遠い。だが遠いからこそ、今日の一線に意味が宿る。僕は板を抱え、次の朝へと歩き出した。


 それでも、夜が深くなると不安が忍び寄る。未来で見た解剖図の正確さ、幾何学の精度、そして筆致の透明感――

 いまの自分の線は、そのどれにも及ばない。子供の体は長時間の作業に耐えきれず、肩や腕がすぐに痛む。炭を握る手は震え、紙も足りない。

 (どうして、こんなにも遠いんだ……?)

 だが、胸の奥で別の声が囁く。遠いからこそ、線を重ねる意味があるのだと。


 母はときどき、僕が板に向かっている背中を黙って見つめていた。ある晩、彼女は小さな灯を足しながらこう言った。

 「あなたの目は、ほかの子と違う。見ているものの奥を、さらに見ようとする目」

 その言葉に、胸が温かくなった。未来のレオナルドはまさにそう呼ばれる存在になる――けれど、僕はいま、その名に追いつこうと必死なだけの少年だ。母の言葉は励ましであり、同時に重い責任のようにも響いた。


 父は厳しかったが、公証人としての観察眼と論理を惜しみなく教えてくれた。契約の文言を一点間違えれば裁きに直結する。だからこそ、細部まで目を凝らし、数を正確に扱う。父の姿を見ていると、芸術と論理が対立するものではなく、根の部分で同じ泉から流れ出ていることを感じた。



 もうひとつ、僕を悩ませたのは左手だった。筆や木炭を握ると、引いた線を自分の手でこすってしまい、すぐに黒く汚れる。紙も板も貴重なのに、うっかり台無しにしてしまうのだ。試しに右手で書けば震えが止まらず、今度は線が踊る。そこで、ふと思いついた。文字を逆から書けばどうだろう――左から右へではなく、右から左へ。

 試してみると、手の甲がまだ乾かない線に触れない。鏡を使えばちゃんと読める。母は首をかしげ、「また変なことを」と笑ったが、僕は妙に安心した。自分だけのやり方が、世界を傷めずに済むのなら、それは“奇妙”でも“正しい”。


 日曜日、父に連れられて小さな礼拝堂へ行った。壁では職人が新しい漆喰を塗り、まだ湿っている面に素早く色を置いている。これが“フレスコ”か。乾く前に描き切らねばならないから、線は迷わない。失敗は、次の層で覆うしかない。僕は胸が高鳴った。筆の速度が、思考より先に出る絵――その緊張は、音楽の即興に似ている。

 鐘が鳴ると、村人たちの声が重なって歌になった。複数の声が少しずれて、やがて一つの和音に溶けていく。僕はその重なりを線で描けないかと考え、紙の端に波形のような曲線を引いた。目に見えないものを、見える記号に翻訳する。その試みは拙いが、確かに手応えがあった。


 帰り道、オリーブの木陰で同年代の女の子が立ち止まり、僕の手を見て笑った。

 「まっ黒だよ」

 「うん、今日の風は、線を遠くへ連れて行くんだ」

 意味のわからない返事に、彼女はくすっと笑い、葡萄の小さな房をひとつ分けてくれた。甘みは控えめで、果皮に野の香りが混じる。胸のあたりがわずかに温かくなり、僕は少しだけ背筋を伸ばした。――恋というほどではない、けれど世界が一段明るくなる瞬間。記憶に小さな栞を挟む、そんな出来事。


 家に戻ると、父の仕事帳をこっそり覗いた。契約文の文字は整い、行間は一定。端に小さな図が描かれ、家屋の寸法や土地の境界が記されている。言葉が世界のかたちを縛り、数字がそれを正す。僕は余白に、村の塔の影と太陽の角度を書き込み、影の長さから高さを求める小さな図式を残した。父に見つかると、「勝手に書くな」と額をはたかれたが、紙を取り上げはしなかった。口の端が、ほんの少しだけ笑っていたからだ。


 夜更け、糸杉が風に鳴る。僕は窓辺に板を立てかけ、今日の空気を思い出しながら、影の縁をやわらげる練習を繰り返した。輪郭を消すのではない。輪郭の向こうに、空気の薄い膜があると信じて、そこに絵具の息を通すのだ。遠い未来に見た“彼の絵”で感じた呼吸の秘密を、幼い僕の指はまだうまく掴めない。だが、掴めないからこそ、手は動く。


――――――


当時の観察や測量の手元はここまでスムーズではなかったはず。道具や紙の入手はもっと大変です。

でも物語なので、少しだけ段取り良く進めています。

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