第19話 師の講義
朝の工房は木槌の音と石臼の響きに満ちていた。
粉が舞い、匂いが混じり合い、弟子たちの声が飛び交う。
だが、ヴェロッキオ師が姿を現すと、そのざわめきはぴたりと止んだ。
鍛えられた腕を組み、眼差しを鋭く走らせる。
「手を止めよ」
低く響く声に、空気が張り詰めた。
師は作業台に石片を置いた。
「覚えておけ。芸術は飾りではない」
言葉は石より重く落ちた。
「絵や彫刻は人を喜ばせるためだけのものではない。
本当に必要なのは、自然の理を掴むことだ」
石片を光にかざしながら、師は続ける。
「水の流れを見よ。渦を巻き、分かれ、やがて合わさる。
筋肉を見よ。動けば張り、休めば緩む。
光を見よ。朝と夕で、同じ像も姿を変える」
アントニオは腕を組んだまま難しい顔をしていた。
ピエトロは皮肉を飲み込むように口を結び、ロレンツォは退屈そうにしていたが耳だけは逃さない。
一方マルコは必死に小さな羊皮紙に書き留めていた。
僕はその姿を横目に見て胸が熱くなった。
(未来で見たノート……あの無数のスケッチは、この言葉から始まったのか)
師の声がさらに強まる。
「対象を“見たつもり”になるな。
形は一瞬で崩れる。
光と影、力と均衡――その調和を理解して初めて命が宿る。
手を動かせ。考えるのはその後だ」
講義が終わると、工房には再び作業の音が戻った。
だがそれは先ほどまでの雑然とした音ではなく、緊張と意識を帯びた音だった。
僕は窓辺に座り、木炭を走らせた。
像の輪郭ではなく、頬に落ちる陰影や首筋に差す光を追う。
(自然を師とせよ……秩序を掴め……)
その言葉が、胸の奥で小さな炎となった。
夕暮れ、工房を出ると川面が赤く染まっていた。
水は絶えず形を変え、波紋が揺れ、光がその表情を映し替える。
同じ瞬間は二度とない。
その移ろいの中に、師の言葉が再び響いていた。
眼の前では、ただ流れる水が答えを告げていた。




