第18話 移ろう季節と工房の日々
春の雨が石畳を濡らし、やがて夏の光が広場を焼いた。
フィレンツェで過ごす月日は、村での時間より速く、重かった。
雑務に追われ、模写に挑み、笑われ、時に助けられ――そうして季節が巡るたび、工房の空気にも少しずつ馴染んでいった。
朝はいつも鐘の音で始まる。
顔料をすり潰し、水を運び、木屑を掃く。
最初は重荷に思えた作業も、今では手が勝手に動くようになった。
アントニオに怒鳴られても動じなくなり、ピエトロの皮肉にも慣れた。
ロレンツォの話す街の噂に相槌を打ち、マルコとは並んで机を囲む。
(僕はもう“新入り”ではなく、工房の一員になり始めている……)
ある日、師の目がふと止まった。
僕が描いていた模写の紙を手に取り、短く言った。
「筆が柔らかくなったな」
その一言に胸が震えた。
長い叱責でも賞賛でもなく、淡々とした言葉。
けれどその響きは、何よりも大きな報いだった。
周りの弟子たちは何も言わなかった。
ただ、その場の空気が少し変わったのを肌で感じた。
夜、窓辺でマルコと肩を並べる。
「最初の頃のお前、線が針金みたいだったな」
からかうように笑う彼の声に、思わず笑みを返した。
「……あの頃よりは少しはマシだろう」
「そうだな。煤まみれでも、ちゃんと人間の顔になってきた」
マルコの軽口に、胸の緊張がほどけた。
笑いながらも、目は真剣だった。
季節が進むにつれ、街の表情も変わる。
夏の市場では果物の匂いが溢れ、秋には収穫祭の歌が広場を満たす。
冬になると冷たい霧が大聖堂を包み、鐘の音が遠くまで響いた。
その度に僕は紙を広げ、街の影や人々の仕草を写し取った。
模写は下手でも、線の一つ一つに「今」を刻むことができる――そう信じた。
夕暮れの帰り道、金色の光が屋根を染める。
石畳の隙間に影が長く伸び、通りを行く人々を覆う。
鐘が鳴り、街のざわめきがその音に溶けていった。
その中で息をしながら、僕は思った。
(この街で過ごす時間そのものが、絵になっている……)
移ろう光そのものが静かに肺を満たしていた。




