第17話 光と影の研究
その日の工房は風に揺れていた。
窓が鳴り、羊皮紙がめくれ、布の端が翻る。
外の空気までが作業場に入り込み、ざわつきを広げていた。
ヴェロッキオ師の声が、そのざわめきを切り裂いた。
「レオナルド。来い」
案内された机の上には籠があった。
葡萄、林檎、洋梨――色も形も異なる果物が盛られている。
「形だけを追うな。光がどこから来て、影がどう生まれるかを見極めろ」
師はそれだけ言い残して去った。
木炭を手に、果物に向かう。
斜めから射す光が葡萄の粒に小さな影を刻み、林檎に艶を与える。
洋梨の肌には柔らかい陰が宿る。
(影はただの黒じゃない……質感を映すもう一つの面だ)
必死で描き込む僕の背後から声が飛ぶ。
「果物なら子供でも描ける」
ピエトロが鼻で笑い、ロレンツォが肩をすくめる。
「腐るものを写して何になる」
胸に刺さったが、筆は止めなかった。
(今この瞬間を留める――それが絵だ)
だが線はぎこちなく、影はべったりと重い。
未来で見た精緻な素描との差に胸が痛む。
(知識はある。でも腕が追いつかない……)
昼過ぎ、師が戻ってきた。
紙を手に取り、しばし沈黙する。
「形は捉えている。だが光が弱い。影ばかりに囚われるな」
「影は光の子だ。親を見失えば子も迷う」
その言葉が胸に深く刻まれた。
夕刻、窓から差す光が赤みを帯びる。
葡萄の粒は琥珀色に透け、林檎は沈黙し、洋梨は呼吸するように陰を変える。
同じ籠が、昼と夕方でまるで違う世界を見せていた。
僕は必死に写し取ろうとしたが、線は空回りした。
「どうした、レオ。手が止まってるぞ」
マルコが心配そうに覗き込む。
「……光が分からない」
吐き出した声は自分でも驚くほど弱かった。
未来の彼なら規則を見出し、図解にまとめただろう。
だが今の僕には、まだその目も技もない。
工房が静まり返る頃、僕は路地へ出た。
夕陽が石畳を金色に染め、人々の影が重なって模様を描いていた。
その複雑な影を追いかけ、紙に線を走らせる。
(影は光の形……)
少しだけ、その意味を掴めた気がした。
夜、再び工房に戻る。
灯火に照らされた葡萄は赤黒く沈み、林檎の表面に炎の光が揺れる。
洋梨は柔らかな影をまとい、まるで呼吸しているかのようだった。
その変化に震えながら木炭を走らせると、背後から声がした。
「お前、本当に変なところを見てるな」
マルコが肩をすくめ、笑った。
「でも、だからこそ面白いのかもしれない」
その何気ない一言が、灯火よりも温かく胸に残った。




