第14話 雑務の日々と夜の独習
「おいレオ、また水こぼしたぞ!」
桶からしずくが石畳を濡らし、年少のマルコの声が響いた。
振り返った僕は慌てて足元を拭く。
工房に入門してからの毎日は、この調子だった。
顔料を石臼ですり潰せば粉が鼻を突き、桶を抱えれば腕が痺れ、床を磨けば背中に汗が流れる。
「昨日は壺を描いてただろ? 今日は床だな」
アントニオが肩を揺らして笑った。
からかいの響きに胸は熱くなるが、妙に誇らしくもあった。
(ここでは皆が同じ建物の石……僕もその一つだ)
昼、机に並ぶ羊皮紙の上で弟子たちは線を走らせる。
光を捉える影、衣の皺の流れ。
僕は石臼を回しながら横目で追った。
(早く、あそこに座りたい)
焦燥が胸を締めつける。
午後、ヴェロッキオ師が現れた。
「新入り」
「はい、師」
「仕事を終えたら窓辺で模写をせよ。ただし怠るな」
短い言葉に心臓が高鳴った。
夕刻、窓辺に置かれた小像を木炭で写す。
だが線はぎこちなく、影は浅い。
「子供の落書きだな」
思わず自嘲が漏れた。
背後から声がした。
「指が真っ黒だぞ」
振り返るとマルコが笑っていた。
僕もつられて笑う。
(この汚れこそが、今の自分だ)
数日が過ぎても、与えられるのは雑務ばかりだった。
薪割り、椅子の修繕、時には鶏小屋の世話まで。
「これも修行だ」と言われれば従うしかない。
だがその隅で描かれる線を、僕は目で盗み続けた。
夜になると粗末な紙を広げる。
影の置き方、筋肉の流れ、衣の重なり。
失敗しては破り、また描く。
羊皮紙が高価すぎるので、削って使い回すこともしばしばだった。
指には豆ができ、灯火の下で眠気と闘いながら木炭を走らせる。
ある晩、床を磨いているとアントニオが声をかけてきた。
「お前、夜中まで描いてるらしいな」
ぎくりとしたが、彼は口元をわずかに緩めた。
「いい心がけだ。ただし寝坊するなよ」
からかいとも忠告ともつかない響きに、肩の力が抜けていった。
工房の灯が消え、夜の街が広がる。
窓の外ではリュートの音が遠く流れ、星が石畳を淡く照らしていた。
木炭の汚れが残る指先を見下ろしながら、僕はそっと窓を閉じた。
その旋律が、眠らぬ街と僕を静かにつないでいた。




