第13話 師ヴェロッキオとの邂逅
熱で溶けた蝋の匂い、木屑のざらつき、絵具の酸い甘い香り。
工房の扉をくぐった瞬間、それらが渦を巻いて僕を包んだ。
村で嗅いだことのない「創造と労働の匂い」に、思わず息を止める。
父セル・ピエロは短く言った。
「ここがヴェロッキオの工房だ」
その名は街で既に響いていた。彫刻家にして画家、多くの弟子を育てる名匠――。
未来の記憶にある名も、実際の空気の中では重みを増していた。
扉を開けた弟子らしき青年が僕を値踏みするように見た。
「誰だ?」
「私は公証人セル・ピエロ。この子はレオナルドだ。話は通してある」
青年は渋々うなずき、僕らを中へ通した。
窓から光が射し、石膏像が白く輝いている。
木槌の音、鋸の音、弟子たちの笑い声。
誰もがそれぞれの机で作業をし、板に金箔を押す者もいれば、像を削る者もいた。
「これが……工房……」
思わず声が漏れた。
奥から現れたのは、髭を整えた中肉中背の男だった。
眼差しは厳しくも静かで、沈黙のうちに弟子たちを黙らせる力があった。
ヴェロッキオ――その名の重さが一瞬で理解できた。
「年はいくつだ」
「十七です」
「若いな」
師は机から羊皮紙を取り上げ、木炭を差し出した。
「描いてみろ。そこにある壺を」
壺は光を受け、滑らかな曲線を浮かべていた。
震える指で線を引く。肩は固まり、額に汗が滲む。
だが陰影を重ねるうち、壺が紙の上に立ち上がった。
工房が静まる。
師は紙を手に取り、長い沈黙ののち口を開いた。
「形は捉えている。だが……お前は対象を怖がっている」
思わず顔を上げた。
「怖がって……?」
「線に迷いがある。写すのではなく、まず触れろ。対象を受け入れてから描け」
弟子たちの視線が集まる。
アントニオは鼻を鳴らし、ピエトロは口の端を上げる。
ロレンツォは面白そうに顎をさすり、年少のマルコは目を輝かせていた。
敵意と好奇心と――少しの共感。
工房の空気は混ざり合い、僕の胸を締めつけた。
父は安堵の表情で師と握手を交わした。
「この子を頼む」
そして工房を後にした。
残された僕は、床掃除を命じられ、雑巾を握った。
木屑と埃にまみれながらも、不思議と悔しさはなかった。
この埃の中にこそ、新しい世界が芽吹いているように思えた。
夕暮れ、窓から赤い光が差し込む。
弟子たちのざわめきの中で、ヴェロッキオ師がふと口を開いた。
「恐れるな。線を走らせよ」
その一言だけが、赤く染まる工房に残り、背筋に静かな熱を刻んだ。




