第12話 フィレンツェの門
羊飼いの木札を描いてから数年が過ぎ、季節は何度も巡った。
僕――レオナルドは、十七歳になっていた。
村の少年として過ごしてきた時間は確かに豊かだったけれど、胸の奥には常に、何かが渇いていた。
羊の群れや畑の模様では満たせない、もっと大きな絵を描きたいという衝動。未来の記憶が遠くで光っていて、それに触れるにはこの丘を出なければならなかった。
父ピエロが、ある夜、静かに切り出した。
「お前を、工房へ預けることにした」
机に広げられた羊皮紙の影に、父の横顔が沈んでいる。僕の胸は高鳴り、同時に恐怖で喉が乾いた。
工房。ヴェロッキオという名匠のもとで学ぶ場所。噂に聞いたその響きは、あまりに大きく遠い。
母は暖炉の脇で縫い物をしていたが、針を止めて僕を見た。
「レオナルド。村にとどまれば、器用な子で終わるかもしれない。でも、外へ出れば……」
その瞳は不安と誇らしさの両方を宿していた。
僕は答えを探す前に、父の言葉が再び落ちてきた。
「明日、出立する」
朝靄の中、父と僕は馬車に乗り込んだ。母は戸口に立ち、最後まで手を振っていた。
村の小道を抜けると、オリーブの葉は銀に光り、糸杉の尖塔が空に突き立っていた。僕が生まれてから見続けた風景。けれど今日は、その色が一層鮮烈に胸に焼き付いた。
(これで見納めになるのかもしれない……)
馬車の車輪は石を弾き、やがて丘を下りていく。父は仕事の書類を抱え、僕は手元の木炭を弄んでいた。何かを描こうとしても、震えて線が定まらなかった。
「緊張しているか」
父が唐突に尋ねた。
「……はい。でも、それ以上に、早く見たい気持ちがあります」
「それでよい。だが学ぶ場では、筆よりも耳と目を使え。まずは師を見よ」
言葉は厳しいが、声にはわずかな期待が滲んでいた。
道すがら、畑の農夫や市場へ向かう商人の姿が続いた。干し草を積んだ荷馬車、色鮮やかな布を抱えた行商人。すれ違うたびに匂いが変わる。葡萄酒の甘い香り、革をなめした匂い、汗と土の混ざった匂い。村では一度に味わえない多様さに、胸がざわついた。
やがて土の匂いは石の冷たさに変わっていく。遠くには塔や壁が見え始め、胸の鼓動が速くなる。
「フィレンツェだ」
父の一言に、僕は息を呑んだ。
門の前には、荷馬車の列、人々の叫び声、売り子の声、そして鐘の音が混じり合っていた。
村で聞いた音楽や祭りとは比べものにならない。色も音も、あらゆるものが重なって渦を巻いていた。
入口の検問で兵士が商人に税を課し、子どもが隙をついて果物を盗もうとして叱られている。犬が吠え、修道士が十字を切って通り過ぎる。世界が一度に押し寄せてくるようだった。
街の中へ足を踏み入れると、石畳の道が四方八方に伸び、両脇には高い建物が連なっていた。布を干す窓、職人たちの槌の音、香辛料の匂い。人が溢れ、馬が嘶き、子どもが走り抜ける。
その全てが「世界の中心」であるかのように輝いて見えた。
(ここで生きるのか……!)
父は用事のため役所へ向かい、僕は一人、広場へと歩を進めた。
すると、視界に突如として現れたものがあった。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
石の森の中から天を突くように立ち上がり、巨大な赤いクーポラ(ドーム)が空を覆っていた。
ブロネレスキが設計したというその建築は、未来の記憶にすら刻まれていたもの。けれど実物の前では、記憶すら霞む。
壁の大理石は白と緑と赤に輝き、彫刻の聖人たちが並び立つ。鐘楼から鳴る音は胸の奥を震わせた。
(人が作ったのか、これを……?)
震える手で石の壁に触れる。冷たさと共に、石の内に流れる時代の力が伝わってくる気がした。
十七歳の僕は、その巨大な建造物を前にして、自分がどれほど小さな存在かを思い知る。けれど同時に――胸の奥に炎が点った。
(僕も、ここで……描くのだ)
群衆のざわめきの中で、ただ一人、自分の未来に向かって誓いを立てる。
光に照らされた赤いドームが、瞳の奥に焼き付き、消えることはなかった。
説としては14歳頃に入門した説が広く認められています。




