第11話 父と母の夜の対話
羊飼いの木札を描いた日から、僕の周囲は少しずつ変わり始めていた。
些細な出来事が積み重なって、村の人々は僕を「特別な子」と見はじめていた。――それは、父と母の耳にも当然届いていた。
その夜、家は不思議なほど静かだった。炉の火がぱちぱちと爆ぜ、薪の匂いが室内に漂っている。父は机に広げた羊皮紙を見つめ、筆を置いた。母は片付けを終え、静かに椅子に腰掛ける。二人の間に、重く張り詰めた空気が流れていた。
父が最初に口を開いた。
「……レオナルドのことだ」
母は予想していたかのように目を伏せ、やがてゆっくり顔を上げた。
「やはり、気になっていたのですね」
父は腕を組み、低い声で続けた。
「村での評判が広まりすぎている。羊飼い、鍛冶屋、商人……あの子が描いたというだけで人が群がる。大人が大人に頼むべきことを子供に求め始めている」
母は小さく微笑んだ。
「それは、あの子の線に人が心を動かされているからです」
「心を動かすことと、秩序を乱すことは違う」父の声は硬い。「契約の場で帳簿の誤りを指摘した件もそうだ。結果的に助かったが、大人の面目を潰した。敵を作るのは容易い」
母の表情から笑みが消えた。
「敵を恐れて才能を塞ぐのですか? あなたは公証人として人の目を恐れたことがあるのですか?」
父は言葉を詰まらせ、目を伏せた。
しばらく沈黙が流れた。薪が崩れ落ちる音が響き、炎が揺れる。母はやわらかく、しかし強く言葉を紡いだ。
「あの子が羊飼いに木札を渡したとき、どんな顔をしていたか覚えていますか? あの笑顔を。絵を描いたから笑ったのではなく、人が喜んだことが嬉しかったのです」
「……」
「祈祷書を前にしたとき、手を震わせながらも描いた。拙くても、あの子は本気でした。描くことをやめたら、きっと魂が枯れてしまう」
父は深く溜息をついた。
「わかっている。だが、工房に入れればただの遊びでは済まん。厳しい師の下で罵倒され、雑用に追われる。耐えられなければ潰れる」
「潰れたらどうなるのですか?」母の声は鋭かった。
「……」
「潰れたら、帰って来ればいいのです。この家がある。この村がある。失敗を許せる場所があるからこそ、挑戦できるのではありませんか?」
僕は戸口の陰に隠れ、呼吸を殺して耳を澄ませていた。母の言葉が胸を打ち、父の声が胸を締めつける。二人が自分のために争っているのがわかる。未来の記憶が「進め」と告げる一方で、心は怯えていた。
父は机に手を置き、拳を握った。
「……フィレンツェだ」
母の瞳が大きく揺れた。
「本当に……?」
「ヴェロッキオの工房。厳しい場だが、あの子の目を育てるにはそこしかない」
母は涙を浮かべ、けれど力強く頷いた。
「恐ろしい場所でしょう。でも、あの子は恐れながらも手を止めない。きっと乗り越える」
「乗り越えねばならん。後戻りはさせぬ」父は厳しく言った。
二人の応酬はさらに続いた。
「費用はどうするのです? あの子を工房に入れれば、学ぶための道具も必要になる」
「契約の仕事を増やす。少し無理をしても用意せねばならん」
「無理をすれば、家族に負担がかかる」
「負担を背負ってでも未来に繋がるなら安いものだ」
「あなたは……本当に変わりましたね」
母は小さく笑った。「かつては安定を重んじる人だったのに、今は息子のために無理をすると言う」
父は黙り込み、やがて「親だからな」とだけ答えた。
夜更け、父は一人で机に残っていた。羊皮紙を片づけ、窓の外を見やる。村の灯が点々と揺れ、星空に溶け込む。
(息子を守るのが父の役目だ。だが守るだけでは育たぬ。公証人としてなら村に留めるのが正しい。だが父として……)
拳を握りしめ、ゆっくりと吐息を漏らす。
「進ませねばならん」
その声は夜に溶け、誰にも届かなかった。だが、その瞬間、父の心は決まった。息子をフィレンツェへ送り出す。――それが彼の答えだった。
ここで一旦ヴィンチ村編は終了です!
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