第10話 修道士の視線
旅の職人ジョルジョが村を去ってから、日常は再び穏やかに戻った。けれど彼の言葉――「工房に入れるかもしれんぞ」――は頭の奥で何度も反響し、眠る前になると胸をざわつかせた。羊飼いや商人からの依頼は続き、僕の手は木炭の黒で常に汚れていた。けれど心のどこかで、もっと大きな舞台を意識しはじめていた。
そんな折、見知らぬ修道士が村を訪れた。茶色のローブに革紐を締め、肩には旅の埃をまとっている。背は高く、歩みは静かだが目は鋭い。彼は父のもとを訪れ、公証の相談をしていた。羊皮紙の契約を確認する父の声を聞きながら、僕は部屋の隅で静かに耳を澄ませていた。
修道士の視線が机の端に置かれた板に止まった。羊の横顔と麦の穂が並ぶ簡素な図。僕が商人の依頼で描いたものだ。
「これは……お前が描いたのか?」
思わずうなずくと、修道士は板を手に取り、目を細めた。
「単なる印ではない。線の中に、祈りの静けさがある」
胸がどくんと高鳴った。祈り。僕は印を描いただけだと思っていた。だが、心を込めて線を重ねることが、誰かには祈りの姿に映るのか。修道士の一言は、見慣れた板をまるで別物に変えてしまった。
修道士は父に向き直った。
「この子は面白い。町の修道院に紹介してもいいかもしれぬ」
父の眉がぴくりと動いた。厳格な表情は崩さなかったが、その沈黙の重さが胸にのしかかった。僕は父の視線を感じ、息を詰める。修道院――未来の記憶が告げていた。そこは聖書の写本や壁画の制作が行われる場所。芸術と信仰が交わる世界だ。
家に戻ると、母が微笑んで言った。
「あなたの線は、誰かの心に届いているのね」
僕は答えられず、ただ胸の熱を抱えたまま布団に潜り込んだ。
数日後、修道士は再び村を訪れた。今度は小さな祈祷書を携えていた。革の表紙は擦り切れ、ページの端は指の油で黒ずんでいる。けれど文字は丁寧に並び、余白がところどころに残されていた。
「試しに、この余白に聖人を描いてみなさい」
僕の手は震えた。紙ではなく羊皮紙。父の契約文とは違う、祈りのための文字の隣に線を置く――その重さに唾を飲み込んだ。木炭を握り、余白に顔を描く。額から鼻筋、目元。未来で見た聖人の慈悲に満ちた表情を思い出し、柔らかさを意識して線を刻んだ。だが、線は揺れ、均一ではなかった。子供の手が描いた顔は歪み、完成度には程遠い。
それでも修道士は長く見つめ、やがて口を開いた。
「まだ稚拙だが……目に慈愛が宿っている」
その言葉に胸が震えた。未熟でも、心を映すことはできるのだ。未来の大作に通じるかどうかはわからない。だが、線に心を込めれば、誰かに届くのだ。
父は黙って見守っていた。修道士が去った後、彼は短く言った。
「聖なるものを描くには、聖なる心が要る。お前が学ぶべきは、線の正しさだけではない」
その言葉の意味は深く、すぐには理解できなかった。けれど胸の奥に突き刺さり、抜けない棘のように残った。
母はその夜、灯の下で僕に布を差し出した。
「余白が足りないなら、ここに描けばいいわ」
布に描いた聖人の顔は滲んで崩れた。けれど、その失敗もまた学びだった。




