序章 灰色の日常と忍び寄る悪意 1 凡庸を演じる少年∶三条響
三条 響にとって、高校生活とは「目立たないこと」が唯一の生存戦略だった。
窓際、最後尾の席。分厚いフレームの眼鏡をかけ、猫背気味に本を読む。図書室へ向かう足取りは常に静かだ。誰とも深く関わらない。誰にも期待しない。そう決めていた。
かつての彼は全く違った。中学時代の響は、校内でも名の知れた陸上部のスター選手だった。専門はハードル走。
「リズムさえ崩さなければ、どんなハードルだって越えられる」
彼はそう信じていた。目の前に突きつけられた理不尽という名の障害を、自分の正義と才能で軽やかに跳び越えられると。愛情あふれる両親に育てられた響にとって、世界は理屈が通じる場所であり、自分はそれを駆け抜ける側の人間だと信じて疑わなかったのだ。
すべてが変わったのは中学二年の秋だった。
放課後の教室で、クラスメイトたちが一人の生徒を執拗に追い詰める光景を目の当たりにした。それは冗談では済まされない、一人の尊厳を面白半分に破壊する行為だった。
「……やめろよ。そこまでやる必要あるのか」
自分でも驚くほど、冷静な声だった。彼が輪の中に割って入ったことで、教室の空気が凍りついた。
それが、彼の選手生命の終わりだった。
翌日から響の「正義」は嘲笑の対象となった。陸上部で培った努力は「生意気な自惚れ」と歪められ、かつての仲間たちは、被害者を見るかのような冷ややかな視線を響に向けた。
今まで学校の人気者だった響の文武両道、おまけにクラスの女子たちが言うには端正な顔立ちだという要素が、いじめっこたちを逆なですることになるとは、響はこの苦い体験をするまで分からなかった。
「僕が間違っていたのか?」
毎晩、両親が作ってくれる温かい夕食を食べながら、響は自問自答した。
両親は「響は誇りだよ」と言ってくれた。その言葉だけが、崩れかけた響の心を支える最後の杭だった。だが、学校という社会で、正義は「弱さ」を証明する呪いだと悟った。
今の高校2年生の響は、陸上部を去り、帰宅部を選んだ。スパイクは捨てた。今は、誰も自分を注目しない場所で、悪意に躓かないよう、慎重に、慎重に歩いている。
放課後の校舎。陸上部員たちがトラックでハードルを並べる音が聞こえる。
(いい音だ……)
響は図書室の窓からトラックを眺め、胸の奥をチクリと刺す郷愁を、冷たい理性の氷で封じ込めた。彼にとって、今は走る必要なんてない。ただ、平穏を守り抜くこと。それだけが唯一の戦いなのだから。
影追いペアは、響の個人的な理不尽、瑞希の社会的な理不尽にさらされた2人の物語です。




