第三十八話 地図にない灯 3
午後二時七分。
灯守亭。
天城の前には。
一杯の味噌汁。
隣には。
水を三杯飲み干した李海斗。
そして。
カウンターの向こうには。
不機嫌そうな店主。
真壁宗一。
「……海?」
真壁が。
低い声で言った。
海斗の肩が。
びくっ。
「はい。」
天城。
「はいじゃない。」
「でも。」
海斗は。
味噌汁を見る。
「しょっぱいです。」
真壁。
「普通だ。」
海斗。
「普通の海ですか?」
「海から離れろ。」
天城が即座に止めた。
隣の老人。
肩を震わせる。
「兄ちゃん。」
「正直だなあ。」
海斗。
「すみません。」
「でも本当に。」
「飲んだ瞬間。」
胸元を押さえる。
「故郷が海になりました。」
「表現を盛るな。」
「心の話です。」
「余計分からない。」
店内。
少しだけ。
笑い。
ただ。
天城は。
笑っていなかった。
客の手元を見ていた。
一人。
味噌汁へ。
水を足した。
ほんの少し。
真壁から見えないように。
別の客。
汁をほとんど飲まず。
具だけ食べている。
もう一人。
漬物へ箸を伸ばした直後。
やめた。
「……。」
全員。
気付いている。
なのに。
誰も言わない。
⸻
真壁が。
天城を見る。
「兄ちゃんは。」
「どうなんだ。」
「はい?」
「しょっぱいのか。」
天城は。
椀を持った。
一口。
舌。
鼻へ抜ける香り。
出汁。
味噌。
その後。
明確な。
塩味。
強い。
「……濃いですね。」
真壁の眉が。
少し動く。
「お前もか。」
「少なくとも。」
天城は椀を置く。
「今の状態なら。」
「私には濃く感じます。」
「今の状態?」
真壁。
「言い方が気に入らねぇな。」
海斗が。
天城へ小声。
「怒ってます?」
「たぶん。」
「どうします?」
「あなたは黙ってて。」
「はい。」
二秒。
海斗。
「何分くらい?」
天城。
「できれば長めに。」
⸻
真壁は。
自分の椀へ。
味噌汁を注ぐ。
一口。
「……。」
もう一口。
「薄い。」
海斗が。
反射的に。
「えっ。」
天城が。
肘で止めた。
「黙る約束。」
「今のは音です。」
「立派な発言です。」
真壁。
「俺には。」
「これでやっと普通だ。」
天城。
「いつ頃からです?」
「何が。」
「味が薄く感じるようになったのは。」
真壁は。
一瞬。
答えなかった。
鍋の蓋を閉める。
「知らん。」
「気付いたらだ。」
「最近?」
「……。」
「三月くらい前か。」
隣の老人の手が。
ぴたり。
止まった。
天城は。
見逃さなかった。
「三か月。」
「たぶんな。」
真壁は。
布巾で手を拭く。
「歳取れば。」
「舌も鈍る。」
海斗。
「まだ若いですよ。」
真壁。
「五十九だ。」
海斗。
「僕のお父さんより少し上です。」
真壁。
「それ慰めになってるか?」
海斗。
「……ならないですね。」
「素直だな。」
⸻
天城は。
店内を見る。
「真壁さん。」
「名前。」
真壁が言う。
「真壁宗一。」
「天城です。」
海斗。
「李海斗です。」
真壁。
「李。」
海斗。
「はい。」
「中国か。」
海斗。
一拍。
「そうです。」
「日本長いのか。」
「まだそんなに。」
真壁は。
海斗を見る。
「だから。」
「何です?」
「遠慮がねぇのか。」
海斗。
「日本に長くいると。」
「しょっぱい料理も美味しいって言うようになるんですか?」
店内。
完全停止。
天城。
「李さん。」
「はい。」
「今。」
「そこです。」
「何が。」
「そこが日本語でいう“空気”です。」
海斗が。
周囲を見る。
「見えないですね。」
「見えません。」
「じゃあ読めないです。」
天城。
「開き直らないで。」
隣の老人。
「ははっ!」
とうとう。
笑った。
⸻
真壁も。
少しだけ。
口元を緩めた。
「変な兄ちゃんだな。」
海斗。
「よく言われます。」
天城。
「今日会ったばかりですけど。」
「俺もそう思います。」
「天城さんまで。」
⸻
天城は。
再び味噌汁を見る。
「真壁さん。」
「味噌汁以外は?」
「何が。」
「甘いもの。」
「酸っぱいもの。」
「苦いもの。」
「そこも薄く感じます?」
真壁。
「知らねぇよ。」
「甘いもんは食わん。」
海斗。
「プリンとか。」
真壁。
「食わん。」
「ケーキ。」
「食わん。」
「アイス。」
「食わん。」
「チョコ。」
「食わん。」
海斗が。
少し悲しそうな顔になる。
「人生の半分損してます。」
真壁。
「誰が決めた。」
天城。
「今そこ掘らなくていいです。」
⸻
カウンター奥。
小さな皿。
梅干し。
天城の目が止まる。
「これ。」
「何だ。」
「一ついいですか。」
「食いたきゃ食え。」
天城は。
箸で一つ。
海斗が。
隣から見る。
「酸っぱいやつ。」
「知ってます?」
「梅干しは知ってます。」
「じゃあなぜ。」
「見るだけで口が酸っぱい。」
天城。
「それは分かります。」
真壁。
「兄ちゃんも食うか。」
海斗。
「僕は。」
少し考える。
「見る担当で。」
「逃げた。」
⸻
天城。
一口。
酸味。
塩味。
強い。
ごく普通に感じる。
真壁。
自分も。
一つ。
ぱく。
「……。」
平然。
海斗。
「顔変わらない。」
真壁。
「何で変わる。」
海斗。
「僕ならこうなります。」
顔を。
ぎゅうっ。
と全部中央へ寄せる。
天城。
「実演いらない。」
老人。
また笑う。
⸻
天城は。
真壁を見る。
「酸っぱくない?」
「酸っぱい。」
「塩辛い?」
「塩辛い。」
「分かるんですね。」
真壁。
「当たり前だ。」
天城。
「じゃあ。」
視線。
味噌汁。
「なぜこれは。」
「薄い。」
と言うのか。
真壁。
「……知らねぇよ。」
今度は。
少し。
苛立ちが混じった。
⸻
そこで。
奥のテーブル。
老婆が。
口を開いた。
「宗ちゃん。」
真壁。
「何だ。」
「その兄ちゃん。」
「あの人じゃないの?」
真壁の手が。
止まった。
天城も見る。
老婆は。
天城を指す。
「Helpの。」
「……。」
海斗。
「知ってるんですか?」
老婆。
「そりゃ。」
「ここで頼んだんだから。」
天城。
「あなたが?」
老婆。
「違う違う。」
「私じゃない。」
海斗。
「じゃあ誰が。」
老婆。
「それは。」
真壁が。
低い声。
「婆さん。」
老婆。
止まる。
真壁。
「飯食ったら。」
「帰んな。」
「……はいはい。」
その場が。
静かになる。
天城の目が。
細くなった。
Helpを送った人物。
店主本人ではない。
少なくとも。
真壁の反応を見る限り。
本人が依頼した可能性は低い。
⸻
海斗が。
小声。
「天城さん。」
「はい。」
「今。」
「何か隠しましたよね。」
「……そう見えました?」
「はい。」
天城。
「やっぱり人の顔はよく見るんですね。」
海斗。
「顔?」
「ええ。」
「僕。」
海斗は。
少し考える。
「声です。」
天城。
「声?」
「あのお婆さん。」
「最後だけ。」
小さく真似る。
「“はいはい”って。」
「それまでより低くなりました。」
「……。」
天城が。
老婆を見る。
確かに。
目線も落ちている。
海斗。
「怒られた人の声でした。」
天城。
「……。」
海斗は。
普通の顔で。
水を飲んだ。
天城は。
少しだけ。
彼を見る。
⸻
真壁。
「おい。」
二人。
「はい。」
真壁。
「食わないなら下げるぞ。」
海斗。
「食べます。」
天城。
「まだ食べるんですか。」
「お腹空いてるので。」
「海と言ってたのに。」
「海でも魚は住めます。」
「その理屈で食べるな。」
⸻
海斗は。
白飯。
焼き魚。
煮物。
味噌汁。
全部。
食べ始めた。
「……。」
「……。」
白飯。
「うまい。」
焼き魚。
「うまい。」
煮物。
「う……。」
水。
「濃い。」
天城。
「正直だな。」
海斗。
「煮物もしょっぱいです。」
真壁。
「普通だ。」
海斗。
「魚も。」
「普通。」
「漬物も。」
「普通。」
海斗。
「じゃあ僕の舌が。」
真壁。
「おかしい。」
海斗。
少しショック。
「そんな。」
天城。
「いや。」
天城は。
箸を置く。
「李さんの舌は。」
「今のところ。」
「おそらく正常です。」
海斗。
「よかった。」
真壁。
「じゃあ。」
天城を見る。
「俺がおかしいって言いてぇのか。」
天城。
「まだ。」
「分かりません。」
真壁。
「はっきりしねぇな。」
「だから調べます。」
「医者か。」
「違います。」
「料理人か。」
「違います。」
「じゃあ何だ。」
天城。
一瞬。
止まる。
海斗が横から。
「謎の人です。」
天城。
「あなたが紹介しないで。」
真壁。
「一番信用できねぇ肩書きだな。」
⸻
午後二時四十分。
客。
一人帰る。
「ごちそうさん。」
真壁。
「おう。」
老人。
小銭。
置く。
海斗が。
ふと。
老人の湯呑みを見る。
ほとんど空。
その横。
水差し。
かなり減っている。
海斗。
「おじいさん。」
老人。
「ん?」
「水。」
「いっぱい飲みましたね。」
老人の顔。
一瞬。
止まる。
「暑いからな。」
外。
薄曇り。
そこまで暑くない。
海斗。
「今日は涼しいですよ。」
天城。
「李さん。」
海斗。
「はい。」
「空気。」
海斗。
「あ。」
老人は。
苦笑した。
「兄ちゃん。」
「本当に遠慮ないな。」
海斗。
「すみません。」
老人。
「いいよ。」
立つ。
「たまには。」
一拍。
「そういう奴も必要だ。」
「……。」
真壁。
「さっさと帰れ。」
老人。
「はいはい。」
出ていった。
⸻
ガラガラ。
扉が閉まる。
海斗。
「怒らせました?」
天城。
「半分。」
「半分。」
「でも。」
天城は。
老人がいた席を見る。
水差し。
味噌汁。
汁は。
半分以上。
残っている。
「役には立ちました。」
海斗。
少し嬉しそう。
「本当ですか?」
「ええ。」
「じゃあ。」
海斗。
「空気読まなくても。」
天城。
「そこまでは言ってない。」
⸻
天城は。
席を立った。
「真壁さん。」
「何だ。」
「厨房。」
「少し見せてもらえます?」
真壁。
「駄目だ。」
即答。
海斗。
「早い。」
天城。
「理由は。」
「邪魔だからだ。」
「見るだけです。」
「邪魔だ。」
「触りません。」
「邪魔だ。」
海斗。
「存在が?」
真壁。
「お前は特にな。」
海斗。
「僕だけ。」
天城。
「少し離れてましょう。」
「はい。」
⸻
天城。
「じゃあ。」
「一つだけ。」
真壁。
「何だ。」
「今日。」
「何時から仕込みました?」
真壁。
「六時。」
「朝?」
「当たり前だ。」
「今まで。」
「どのくらい味見しました。」
真壁が。
少し考える。
「知らん。」
「十回?」
「もっと。」
「二十。」
「もっと。」
「五十。」
真壁。
「数えてねぇ。」
天城。
「水分は?」
「飲んでる。」
「どのくらい。」
「適当だ。」
天城。
「休憩。」
「暇な時に。」
「厨房から外へ出ました?」
「何で出る。」
天城。
「……。」
海斗が。
ぽつり。
「ずっとここ?」
真壁。
「店だからな。」
海斗。
鼻を動かす。
「ずっと。」
「この匂いの中?」
「そうだ。」
天城が。
海斗を見る。
海斗も。
天城を見る。
一瞬。
同じことを。
考えた。
⸻
海斗。
「天城さん。」
「はい。」
「さっき。」
「外から入った時。」
「ものすごくいい匂いしました。」
「しましたね。」
「今。」
鼻を動かす。
「……あんまりしません。」
真壁。
「慣れただけだろ。」
「……。」
天城の目が。
変わる。
真壁は。
何気なく言っただけ。
だが。
その言葉。
慣れた。
⸻
人間の嗅覚は。
同じ匂いに長時間さらされれば。
感じ方が弱くなることがある。
香水。
部屋。
料理。
最初は強烈だったものが。
いつの間にか。
背景へ沈む。
「嗅覚順応……。」
天城。
小さく呟く。
海斗。
「きゅうかく?」
「同じ匂いに。」
「ずっといると。」
「感じにくくなることがあります。」
海斗。
「じゃあ。」
厨房を見る。
「真壁さん。」
「朝六時から。」
「ずっと料理の匂いの中?」
天城。
「可能性の一つです。」
真壁。
「匂いと味は別だろ。」
天城。
「完全には別じゃありません。」
「料理の“風味”は。」
「舌だけで決まらない。」
海斗。
「鼻も?」
「鼻も。」
天城は。
自分の鼻を軽く指す。
「口の中から鼻へ抜ける香りも。」
「食べ物の感じ方にかなり関わります。」
海斗。
「だから鼻詰まると。」
「ご飯まずくなる。」
天城。
「そういうことです。」
真壁。
「俺は鼻なんか詰まってねぇぞ。」
「分かってます。」
天城。
「だから。」
「これだけでは。」
「説明できない。」
海斗。
「まだ枝?」
天城。
見る。
「枝?」
「さっきから。」
海斗が。
手で空中に。
枝分かれを描く。
「天城さん。」
「考える時。」
「目がこう。」
「こう?」
「道いっぱい作ってます。」
天城。
「……。」
海斗。
「頭の中。」
「木みたい。」
一瞬。
天城は。
言葉を失った。
まだ。
会って数時間。
なのに。
妙に。
よく見ている。
⸻
その時。
柱時計。
カチ。
午後三時。
真壁が。
鍋。
新しく。
出汁を取る。
味見。
一口。
「……。」
塩。
入れる。
天城。
見る。
一つ。
二つ。
三つ。
「真壁さん。」
「何だ。」
「その出汁。」
「今。」
「一口もらえます?」
真壁。
「味噌汁じゃねぇぞ。」
「それでいいです。」
小皿。
天城へ。
天城。
飲む。
「……。」
海斗。
「どうです?」
天城。
「普通です。」
真壁。
「だろ。」
海斗。
「え?」
天城は。
もう一口。
まだ。
異常な濃さではない。
天城。
「さっきの味噌汁より。」
「かなり薄い。」
真壁。
「当たり前だ。」
「まだ仕込み途中だ。」
天城。
「……。」
壁時計。
午後三時二分。
頭の中。
枝。
新しい一本。
時間。
⸻
午前から。
味覚が壊れているなら。
最初から。
すべて濃くなるはず。
だが。
今。
作り始めたばかりの出汁は。
正常範囲。
「……。」
天城。
「真壁さん。」
「今朝作った料理。」
「残ってます?」
「ある。」
「夕方。」
「もう一回食べ比べさせてください。」
真壁。
「何で。」
天城。
「確かめたいことがあります。」
「何を。」
天城は。
時計を見る。
「真壁さんの舌が。」
一拍。
「壊れているのか。」
「それとも。」
店内を見る。
「この店の中で。」
「何かが変わっているのか。」
真壁の表情が。
初めて。
少しだけ。
真剣になった。
⸻
海斗。
「天城さん。」
「はい。」
「じゃあ。」
「僕たち。」
一拍。
「夜までここいるんですか?」
「そのつもりです。」
海斗。
笑顔。
「晩ご飯も?」
天城。
「そこ?」
真壁。
「出さねぇぞ。」
海斗。
「そんな。」
天城。
「目的を忘れないでください。」
海斗。
「忘れてません。」
腹。
ぐう。
天城。
「説得力がない。」
⸻
その頃。
店の外。
古い井戸。
陽は。
まだ高い。
透明な水。
ぽた。
ぽた。
その横。
削れた注意書き。
⸻
飲用可
ただし夜間は――
⸻
白い石の上。
一滴。
水が落ちた。
何も。
起きない。
まだ。
午後三時。
八時まで。
あと。
五時間。
そして。
灯守亭の味が。
本当に壊れ始める時間も。
まだ。
もう少し先だった。




