第十四話 戻れない席 6
男は器を口元で止めた。
ほんの一瞬だけ、迷うように。
だが、そのまま傾ける。
一口。
液体が舌に触れる。
次の瞬間、男の喉がはっきりと動いた。
飲み込む。
そのまま、わずかに息を吐く。
「……」
何も言わない。
だが、さっきまでとは違う。
呼吸が、一段深くなっている。
胸まで落ちている。
天城は黙って見ていた。
男はもう一口飲む。
今度は止まらない。
喉が自然に動く。
肩の力が、ゆっくり抜けていく。
「……あ」
小さく声が漏れる。
自分でも分からないような声だった。
男の視線が、皿に向く。
さっきまでと同じ皿。
同じ料理。
だが、見え方が違う。
焦点が合っている。
男は箸を持つ。
ほんの一瞬、止まる。
だが——
今度は、そのまま動いた。
料理を持ち上げる。
口へ運ぶ。
咀嚼する。
ゆっくりと。
だが、途切れない。
飲み込む。
「……」
息を吐く。
今度は、はっきりとした呼吸だった。
「……味がする」
ぽつりと漏れる。
天城は何も言わない。
男はもう一口食べる。
さっきより、少し早い。
止まらない。
瀬尾が、小さく息を吐いた。
「……戻ったのか」
天城は首を横に振る。
「まだです」
視線は男のまま。
「動き出しただけです」
男は食べ続けている。
だが、速くはない。
急いでもいない。
ただ、止まっていない。
それでいい。
店の奥で、誰かが笑う。
今度は、続いた。
短い会話が、途切れずに流れる。
椅子の音が、自然に混じる。
空気が、わずかに動いている。
瀬尾が言う。
「……何だったんだ、あれは」
天城は少し考えてから言った。
「止まってただけです」
「全部が」
瀬尾は眉を寄せる。
「全部?」
「水も、味も、空気も、人も」
短く言う。
「どれか一つじゃないです」
瀬尾は黙る。
天城は続ける。
「繋がれば、動きます」
それ以上は言わない。
男は食べ終えかけている。
途中で止まらない。
だが——
完全に戻ったわけではない。
動きはまだ慎重だ。
天城はそれを見て、小さく息を吐いた。
「……無理しないでください」
男が顔を上げる。
さっきより、はっきりとした目だった。
「……はい」
短く答える。
天城は頷く。
それで十分だった。
瀬尾がカウンターの奥で、鍋の火を少しだけ調整する。
手の動きが、さっきより安定している。
店の中に、流れが戻っている。
天城はカウンターに手を置いた。
指先に伝わる温度が、少しだけはっきりしている。
完全ではない。
だが、止まってはいない。
「……」
天城は店内を一度だけ見渡した。
水。
出汁。
空気。
人。
どれも、まだ整ってはいない。
だが——
流れは、戻り始めている。
天城はコートに手をかけた。
瀬尾が声をかける。
「もういいのか」
天城は軽く頷く。
「しばらくは、大丈夫です」
瀬尾は何か言いかけて、やめた。
代わりに、小さく頭を下げる。
天城はそれを見て、何も言わずに店を出た。
外の空気は、少し冷たかった。
一度、深く息を吸う。
今度は、ちゃんと落ちる。
「……」
小さく息を吐く。
背後で、扉の音が静かに閉まる。
店の中の音は、もう歪んでいなかった。
天城は歩き出す。
まだ、やることはある。
一つでは足りない。
この街は、どこも少しずつ噛み合っていない。
だが——
止まってはいない。
それでいい。




