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【幕間】 火気厳禁

 ガレージは雨だれの音に包まれていた。


 雨季終わりかけの雨は降りだすと長い。

 ハシュラは憂鬱な溜め息をひとつ吐き出した。

 今日は使い番は店じまいかもしれない。


 カトウはさきほどサカザキに呼ばれて出て行った。

 ここのところ、カトウは、ゲンユだとかケイユだとかで事務所を空けることが多い。


 カトウがサカザキの話をするとメガネの人の機嫌が悪くなる。


 メガネの人――ナイリザは苦手だ。

 サヒリで、貴族で、魔術師で、すぐに怒る。

 カトウがいない時に話しかけるのにはなかなか勇気がいる。

 今はたぶん事務所で一人で仕事をしている。


 カトウはハイラックスで出たので、しばらく戻らないだろう。


 主のいないガレージはがらんとして広かった。

 台風で歪んだシャッターは、今日も十センチほど浮いている。

 その隙間から湿った風が入り、床に溜まった埃と泥の匂いをかき回していた。


 ハシュラは古いタイヤの上に腰掛けて、しばらくぼうっとして、シャッターを眺めていた。


 居座っている。


 自分でも、そういう状態だという自覚はあった。


 寝床を借りている。雨風をしのいでいる。エアマックスの箱のほか、ささやかな私物――ほとんどは拾得物だが――も増えてきた。

 カトウは何も言わない。

 いや、言う。毎朝「早く次を探せ」と言う。だが、「出ていけ」とは言わない。


 なぜかはわからない。

 そこにつけこんで居座っている身で言うことではないが、いろいろ不用心ではないかと思う。


 例えばここのガレージのシャッター。

 台風の日、鍵が壊れていて助かったのは事実だ。

 だが、こんな宝の山に、鍵もかけずに放置しているのはよろしくない。


 工具なんてどれも銀貨で売れるだろう。

 何よりあの、ハイラックス。

 今は出払っているが普段はこのガレージに置きっぱなしだ。


 あの、見たことのない、滑らかな流線型の板金。

 張りぼてのようだが、中にはみっしりと鉄の臓器が詰まっていることをハシュラは知っている。

 以前カトウが蓋を開けているところを覗いた。

 あれが噛み合って、タイヤが回転し、鉄の小屋のようなハイラックスが動くのだ。

 ヤポンのものはすごい。まるで理解できないが、すごい。


 そんなものを置く場所なのだから、やはり入り口くらいはちゃんと閉まるように直しておくべきだと思う。

 そう考えて、もう一度、十センチほど隙間が空いたままのシャッターを眺めた。


 留め金が歪んでいて閉まらないのだ。

 それくらいはハシュラにも見てわかる。


 実は、替えの留め金の場所も知っている。

 前にカトウが取り出して、交換しようとして、やっぱり止めて戻したところを見ていた。


 雨。仕事はない。手持ち無沙汰だ。

 少しくらい役に立ってもいいかもしれない。


 留守のうちに留め金を交換しておく。

 「お前がやったのか?」

 そう言って、いつもの無表情で、少しだけ目を見開く。


 悪くない。ハシュラは想像してにんまりと頬を緩めた。


 立ち上がり、ガレージの隅に置かれた工具箱を見る。

 赤い鉄の箱。

 開けると金属の匂いがした。油と錆と、少しだけ薬品のような臭い。


 中は二段に分かれていて、上段にはドライバーやペンチ、よくわからない器具。

 下段には様々な形状の金具やビスが入っていた。


 ハシュラは適当なペンチを取り出し、シャッターの前にしゃがみ込んだ。


 両手でペンチを握って力を込める。

 ぎぎ、と嫌な音がした。

 受け金具は思ったより固い。

 もっと良い道具はないか。工具箱に戻って、物色をし始める。


 不思議な道具を見つけた。

 把手のある本体から横に、捻じれた金属の刃が飛び出している。


「なんだ? これ?」


 刃に触れないように注意しながら手に取った。

 手に取ったところで、背後から鋭い声がした。


「何をしているの」


 ハシュラは反射的に、手に持っていた道具を背中に隠す。

 振り返ると、ガレージの入口にナイリザが立っていた。


 白いブラウスに、濃紺のスカート。髪はきっちり結われ、眼鏡の奥の目が細くなっている。

 いつも通りの格好だが、顔だけが妙に怖かった。


 その表情を見て、ハシュラの胸が何かにぎゅっと掴まれた。

 ここのところ、平穏過ぎて忘れかけていた感覚だった。


 あ、まただ。

 そう思った。


 笑顔で挨拶してくれていた人が、ハシュラが物に触れた途端、表情を変える。

 あれは、見たくない。

 触るな。盗むな。汚すな。そして、出ていけ。


「ち、ち、違うし!」


 噛んだ。ダサい。


「それを置きなさい」


「……これはっ」


「置きなさい」


 声が一段低くなった。

 ハシュラは渋々、握りしめていた道具を置いた。


「……盗ってねーし」


 小さな声でそれだけ呟く。


「は? 何言ってるの?」


 ナイリザはそう言いながら、硬い足音とともに早足で近づいてくる。


「工具箱は開けるなって、言ったはずだけど」


「……」


「まったく。サヒリグムは、どうして触っていいものと悪いものの区別もつかないの」


 謎の道具を拾い上げながら、不機嫌そうにそう言った。


 サヒリグム。何度も言われ慣れたその言葉が、今回は妙にハシュラの胸に刺さった。

 刺さったから、不用意な反発が口から出てしまった。


「……そういう言い方すんのかよ」


 ナイリザの手が止まる。

 ハシュラは言ってから、しまった、と思った。

 世が世なら、浮浪児が三位に口答えするなどあり得ない。次の瞬間には消し炭にされる。


 ナイリザは少しの間、沈黙してから言った。


「……今のは違ったわ」


「何が」


「言い方」


 そこでナイリザは一旦言葉を切った。


「ちょっとこっちに来なさい」


 ナイリザは工具箱の前に立ち、手招きをした。

 招かれるままに近づく。


 ナイリザは謎の道具を持ち上げ、先端の刃物を見つめながら、苦々しく舌打ちした。


「誰よ。ドリルビットつけたまま、しまったのは」


「それ、何?」


 ハシュラが尋ねると、ナイリザは無言で工具箱から何かを取り出した。

 手のひらに収まるような、黒い四角い小箱。

 それを取り上げた謎の道具の底に、ガチリとはめ込む。把手についていたランプが緑色に光った。


「見なさい」


 ナイリザが把手を握り込む。

 カチリと音がした。

 金属の刃が甲高い音を立てて回転し始める。目に見えないほど高速だ。

 空気を震わせる音は風の精霊の鳴き声のようだった。


「電動ドリルよ。髪や紐を巻き込む。体に当てれば穴が開く」


「……」


 一瞬、ヤポンの機械の神秘に目を奪われたあとで、ようやくハシュラの理解が追いついた。

 危険だから触れるな。

 どうもそういうことであるらしい。


 盗みを疑われていないとわかった安堵と、危険だから怒られたのだという不思議な感覚に、一気に力が抜けた。

 脱力のあまり憎まれ口が出た。


「刃物が危ないのくらい見ればわかる」


「わかってない」


 ナイリザが工具箱の中を覗き込み、赤い缶を取り出す。


 缶にはヤポンの細かい字がびっしり書かれていた。炎みたいな小さな絵にばつ印がついている。


「例えばこれも危険なものよ」


「なんで」


「火気厳禁」


「カキゲンキン?」


「火の近くで使うな、という意味」


「それは、絵を見ればわかるし」


「わかってないわよ」


 ナイリザは缶を軽く振った。


「これは中身が空気に混じりやすい。見えないけど、周りに広がる。そこで火を使うと、手元だけじゃなくて空気ごと燃える。この中身が燃えやすいから」


 ハシュラは黙った。


 ナイリザは次に白い缶を取り上げる。


「こっちはパーツクリーナー。油を落とすもの。これも火気厳禁。吸い込むのも駄目。目に入ったらすぐ洗う」


「……なんで、そんなのわかんの」


「書いてあるから」


「メガネの人、ヤポンの字も読めるのか」


「ナイリザと呼びなさい」


「ナイリザ」


 ハシュラが素直に従うと、ナイリザはため息混じりに答えた。


「……読めるわよ」


 すごい、と思った。素直に。ただ、何がすごいか、うまく言えなかった。

 ヤポンの字を知っていてすごい。それだけではない。


 例えば、ギンネはヤポンの品物に詳しい。ナズィムもそうだ。

 どれが売れるか、どれが丈夫か、どれが壊れやすいか、よく知っている。

 文字でも見分けをつけていた。


 ただ、ナイリザが今のやったことは、そういったやり方とは別物だった。


 缶に書かれた小さな印から、見えない空気のことを読んだ。

 まだ起きていない火事のことを読んだ。

 触ってもいない薬品が、目に入った時のことまで読んだ。

 意味を理解している。


 要するに、ナイリザはヤポンのものをヤポンのものとして扱っていた。

 そこが不思議で、少しだけズルいように感じた。


 ナイリザは工具箱の中身を手早く分けていく。


 触ってもいいもの。

 触ってはいけないもの。

 加藤かナイリザを呼ぶもの。捨てるもの。


 その手つきは、雑貨屋の値踏みとも、盗品を漁る手つきとも違っていた。

 物の値段を見ているのではない。

 物の性質と危険度を見ている。


 同じ工具箱を覗いているのに、見えているものが違う。ハシュラはそう思った。


「規則表を作るわ」


 ひと通り説明を終えたところで、ナイリザがそう言った。


「きそく?」


「ここでやっていいことと、駄目なことを書いて貼る」


「字なんか読めねーし」


 ナイリザの手が止まった。


「……まったく読み書きできないの? 数字も?」


「ヤポンの数字なら読める」


 ハシュラは胸を張った。

 数字は読める。カエルバナの強さは37だ。

 台風で吹き飛ばされてしまったが。


「なんでヤポンの数字が読めて帝国数字が読めないのよ……」


 ナイリザはこめかみを押さえた。


「ヤポンの数字はそこらへんに書いてあるし。値札とか、ゲームとか。帝国の字は読めなくても死なない」


「死ぬわよ」


「死んでないし」


「今のところはね」


 ナイリザは事務所へ戻ると、しばらくして紙と太いペンを持ってきた。


 ガレージの床にしゃがみ、紙を広げる。


 まず、火の絵を描いた。


 その上に大きくバツを書く。横に帝国語で何かを書き、その下にヤポンの字でも何かを書いた。


「火。駄目」


「それくらいわかる」


「火気厳禁。さっきのカキゲンキン」


「空気ごと燃えるやつ」


「そう」


 次に工具箱を描く。


 四角い箱と、そこから突き出たペンチのようなもの。その上にもバツ。


「工具箱。駄目」


「それはさっき聞いた」


 次にハイラックスらしきものを描いた。


 車体の下に、小さな人影。バツ。


「車の下。駄目」


「絵、下手だな」


 思ったままのことを言う。

 少し間があった。


「……通じればいいのよ」


 ハシュラはそこで、ナイリザがほんの少し傷ついたらしいことに気づいた。


 意外だった。


「あー、うん。大丈夫。通じるよ。ドンマイ」


「なんかムカツク言い方ね」


 ナイリザはさらに、事務所の扉らしき四角を描き、その前に立つ人影を描いた。


 そこにはバツではなく、矢印と、口を開けた顔のようなものを描く。


「事務所に入る時は、先に声をかける」


「入ってない。扉のところ」


「それを屁理屈と言うの」


「へりくつ」


「覚えなくていいわ」


 紙の左側に、ナイリザは大きく数字を書いた。


 1。


 2。


 3。


 4。


 ハシュラは満足して頷いた。


「それなら読める」


「……本当にアラビア数字は読めるのね」


 続いてナイリザはヤポンの数字、ヤポンの文字の下に、見慣れた文字を書き込んでいく。


「これ、数字?」


「そう。帝国数字。帝国語。伝票くらい読めるようになりなさい。使い番でしょ」


「読めたらわかるようになる?」


「? 当たり前でしょ。読めればわかるわよ。わかることを読めると言うの」


「ふうん」


 * * *


 その日の夕方、加藤が戻ってきた。


 ガレージの前で足を止め、壁に貼られた紙を見る。


 火にバツ。


 工具箱にバツ。


 車の下にバツ。


 事務所の扉の前で叫ぶ人影。


 それぞれの絵の上には妙に大きなアラビア数字と帝国数字。絵の下には日本語と帝国語の説明文。


「……これは何だ」


「規則表よ」


 ナイリザが事務所の階段から答えた。

 加藤は紙をしばらく眺める。


「数字だけ妙に大きいな」


「アタシが読めるから」


 ハシュラは胸を張った。


「そうか」


 加藤はそれ以上何も言わなかった。


 ただ、工具箱に鍵がかかっていることを確認し、壁の規則表をもう一度見て、少しだけ口元を緩めた。


「守れよ」


「わかってるって」


 * * *


 その夜、ハシュラは一人で柱の紙を見上げた。


 帝国語は読めない。


 ヤポンの字も読めない。


 でも、左端の数字は読めた。


 1。火。


 2。工具箱。


 3。車の下。


 4。事務所の扉。


 絵は下手だった。

 それでも、何をしてはいけないのかはわかる。


 ハシュラは、火の絵と、その下の文字を指でなぞった。

 ヤポンの言葉と、帝国語。

 火気厳禁。


 それだけで、少しだけヤポンのものがわかるようになった気がした。


 ガレージの外で、夜風が歪んだシャッターを小さく鳴らした

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