彷徨
夜半に降った雪が囲炉裏の熱で溶け、小さな銀竹(つらら)が藁ぶき屋根の軒にいくつも垂れている。
与兵衛のあばら屋は戸の隙間から、雪や冷気が存分に入り込んできて、チセとは違いおそろしく寒かった。
”シサム(和人)の家屋とはこれほどまでに寒いのか・・”
田知の領主から借りた毛皮の寝具を、アトゥイにかけ直してやりながらイカエラは思った。
意識の戻らないアトゥイはガリガリに痩せてしまっている。
なんとか食事をとらせようとしたのだが、力ない口からこぼれてしまい滋養を与えられないからだ。
いつの頃だったか・・・
ガリガリに痩せ衰えていく息子の姿を見るに耐えかねて、狩りで獲ってきた鹿の血を与えてみたのだ。
すると、飲み込んだではないか。
もう一度与える、また飲み込む。
これは”鬼”とやらが憑代を死なせない為の力なのか?・・・
死期色だったアトゥイの顔に、血の色が甦っていくのを複雑な気持ちで見ていた。
しかしその時、イカエラはあるだけの血を与え続けたのだった。
そして今、傷の回復が見込めたアトゥイと、いつまでもこのままこの地に留まる訳にもいかず、また別の気がかりもあった為、イカエラは出発の準備を始めた。
それは、ここ数日寝静まった深夜に感じる、屋外の”気配”である。
与兵衛は何も感じない様でスヤスヤと寝ているのだが、あばら屋の中を窺う様に、音も立てずにゆっくりと外を周るなにかを感じるのだ。
あの狼やカラスと同類のものが様子を見に来ている。
そんな感じがしてならない。
ここにいては世話になった与兵衛に迷惑をかけかねない、それが出発を急ぐもう一つの理由であった。
「けさはぁしばれだだす、やねさたるひさがったな~」
(今朝はとても寒かったから、屋根につららが下がったねぇ)
などと呑気なことを言っている与兵衛を尻目に、イカエラは立ち上がった。
「大変世話になったな、礼を言う」
言葉は解らなくとも雰囲気を察した与兵衛が、しきりに引き止めるのを振り切って、イカエラはアトゥイを背負い背嚢を胸にあばら屋を出た。
このまま、ポンコタンには帰れない。
十三湊で船の支度を整わせる為に、海竣がくれた紹介状を手に所々に残る残雪を踏みしだきながら北西に歩き出す。
それを心配そうに与兵衛が見送っていた。
イカエラの歩みは力強い、漆黒の絶望の中で手探りでも前に進む事が出来る強さをイカエラは持っていた。
「アトゥイ、寒くはないか?」
返事が返ってこないのは解っていたが何度も話しかけた。
ずれ落ちた毛皮のアミブをかけ直してやる。
澄み渡る青い空には、渡り鳥が群れをなし飛んでいく。
アトゥイを背負ったイカエラの姿は、残雪の森に消えた。
その一刻程の後、霞が立ち上がる街道を足早に歩く、一人の山伏を見出す事が出来る。
それは与兵衛のあばら屋へまっしぐらに向っていた。
街道を少しはいりこんだ家の前に立ち声を掛ける。
出て来た与兵衛に話を聞くと呻くように言った。
「一足違いだったか・・」安房の坊海竣である。
「どちらに向って行った?」
「子供さぁ背負ってぇあっちの方さぁ行ったずぁ」
与兵衛が指差した方向は、まっすぐと十三湊に向いている。
「すまん世話になったな、さらば!」と言うと、イカエラの足跡を頼りに駆け出した。
陽が傾き寒さが増してきた夕刻、イカエラは方角を確かめるべく、沢伝いに行くのを止め小高い山に登った。
やはりここにきても、シサム(和人)の整備した街道を行く危険を冒す訳にはいかず、太陽の位置を頼りに獣道を歩いた。
すると、微かだが後方から絡んでくる様な視線を感じる。
素早く振り返ってみたが誰もなく、肩越しのアトゥイは相変わらずぐったりしている。
”気のせいか・・”前に向き直ったその時!
後方の樹上から勢いよくなにかが吹き付けてきた。
それは、咄嗟にかわしたイカエラの横を通りすぎると、松の木に付着してピンと伸びた。
”なんだ!?”
行動を制限されない様にする為、小刀でその粘着性のある透明な紐を切り払う。
木の影から”それ”が吹き付けられた方向を見た。
すると、大きな杉の大木の上に、脚を広げれば二丈(6m)にもなろうかという、巨大な蜘蛛の様にも見える強固な外殻をもった赤黒い蟹の様な生物が、複数の目でじっとこちらを見ている。
”なんだこいつは?”
イカエラは急いで背嚢を胸から降ろすと、アトゥイを背負ったまま木の影から様子を窺った。
”シャカシャカ”と木に爪をたて降りてくる。
杉の大木がそいつの重みでザワザワと揺れた。
そいつは四本の長い後ろ脚で巨体を素早く移動させ、二本の巨大なはさみを持つ前足を前後に振っている。
”沢蟹?”そのシルエットはとてつもなく巨大な沢蟹の様であったが、八つ目が胴体に並び蜘蛛にも見えた。
そいつが、イカエラの潜む木の方に向って、糸をあちこちに吹き付け始めた。
それはまさに蜘蛛の巣を連想させたが、蜘蛛の巣程の緻密さはなく、まだらに張った糸は獲物の行動を制限させる狙いと思われた。
そいつが”シャカシャカ”と大きく周り込んできた。
イカエラは何本もの糸を切り払いながら、木の影に周り込む。
そいつは絶え間なく糸を吐き出しながら、少しずつ近寄ってきた。
獲物の行動を制限させ、糸を切り払う隙を狙って攻撃してくるのが狙いだ。
そう判断したイカエラは躊躇する事無く正面から”そいつ”に突っ込んだ。
その”巨大な蟹”が糸を吐いた。
右に飛んでそれをかわし、右手の小刀を撃ち込もうとした時、巨大な左のハサミがイカエラの頭上から振り下ろされる。
飛び下がりそれを躱すと、右のハサミが地を這う様に振り上げてきた。
イカエラはそれを左足で受け止め踏みつけた。
地面の傾斜に足をとられて、イカエラと”そいつ”は横滑りする。
傾斜の傾きを利用して”そいつ”の懐に飛び込むと、胴体の前面に並ぶ複数の目を片っ端から小刀でついた。
もがいて暴れる巨大な蟹、その時!
イカエラは背後からアトゥイを引きはがされた。
「なに!?」
暴れた蟹に吹っ飛ばされて斜面を転がったイカエラが、体勢を立て直し見上げたその先には・・
アトゥイを小脇に抱えて立つ者がいた、それは明らかに人間だった。
そやつは身の丈五尺程の中年の農夫の姿をしている。
その目が微かだが赤く光った様な気がした。
そいつを追おうとしたイカエラの足が”蟹”の長い脚に払われて斜面を転がり落ちる。
「くっ!」急いで見上げると、中年の農夫がアトゥイを抱えて駆け去っていく!
「待て!!」
イカエラの前に複数の目から血を流している”蟹”が立ち塞がった。
「アトゥイイイイ!」イカエラの絶叫が山間に木霊する。
中年の農夫とアトゥイがイカエラの視界から消えかかった。
その時!中年の農夫の足に何かが巻きついた。
農夫は転倒しアトゥイは放り出される。
イカエラからは斜面の死角になった所から、山伏が中年の農夫に飛びかかるのを見た。
そんなイカエラに”蟹”が襲いかかってきた。
ハサミの攻撃をかわし、再びそいつの懐に飛び込むと、蟹の口の小さな脚がシャワシャワとせわしなく動いている。
その口に力一杯小刀を撃ち込む!小さな脚がイカエラの手の甲をひっかくが意に介さない。
”蟹”の巨大なハサミがイカエラを挟み込もうとした時、イカエラは飛び離れた。
そのままアトゥイを探し斜面を駆け上がる。
そこには山伏の後ろ姿と、倒れているアトゥイがいた。
「カイシュン!」イカエラが呼びかけると山伏は振り返る。
「ようやく追いついた」ニッと笑う。
「奴は?」
「逃げ去った」言葉の通じない二人だったが、その雰囲気や挙動でなにを言っているのか察っせられる。
”蟹”も斜面の下の方へ逃げて行った。
イカエラも笑い返した。
「助かった。礼を言う」
二人はアトゥイに屈み込むと、怪我がないか確認する。
ガリガリに痩せてしまったアトゥイを見た海竣が、心配そうにしていると
「あいつはアトゥイを連れ去ろうとした。目的はなんだ?」
アトゥイに目を向けたままイカエラが海竣に問うた。
「わからん・・」海竣は首をふる。
イカエラの言葉から察する意味も、その言葉も含めてそう言った。
アトゥイを背負い背嚢を胸にかけると、イカエラは立ち上がり海竣に向き直った。
「どうしてここへ?」
「これを」と笈から巻物を取り出しイカエラに差し出した。
「十三湊へは行かずとも大丈夫だ」と笑う。
怪訝そうにしているイカエラに、
「判官殿が紹介状を書いてくれたのだ、約束を取り付ける必要はない」
さすがに難しい言葉のやり取りは無理だし、ホウガンドノなる人物を知らない。
イカエラは不思議そうな顔をしている。
海竣は巻物をイカエラに突き出すと
「ポンコタン!ポンコタンに帰れ」と繰り返した。
巻物を受け取ったイカエラは、それでも怪訝そうな顔をしている。
海竣はイカエラの手をとり、元来た道を引き返そうとする。
それでイカエラは理解した。
”カイシュンはなんらかの方法で、十三湊からポンコタンの皆を乗せるアイヌモシリ(アイヌ民族の土地)までの舟を調達してくれたのだ”と
”その証がこの巻物で、急ぎポンコタンに帰り、皆を連れて早急にアイヌモシリへ行け”そう言っている。
イカエラは海竣の両肩を両手で掴むと、頭を下げるしぐさをした。
その長い時間は、大きな感謝の気持ちを現していた。
その意をくみ取った海竣は少し感動しながら
「さぁ時間が惜しい、急ごう」とイカエラをうながし歩き出した。
枯葉つもる斜面は、ともすれば足を滑らしそうになる。
しかし海竣のおかげで、行程を一気に短縮出来た喜びから、足取りも軽くなった。
雁の群れが飛んでいく・・雲一つない青空が樹木の間からどこまでも続いていた。
暗い・・真っ暗だ・・・
そんな漆黒の闇の中で、狼が狂った様に咆哮をあげている。
それは絶え間なく続き、その狂気と熱情にアトゥイも触発されそうになる。
”ごぉぉおおおおおおおおおぁぁあああああ”アトゥイの中のアトゥイがつられて雄叫びをあげようとした時
”ドン”と響いてきた声があった。
”ラメトクある息子よ・・”
”お前はお前のままでよい・・自信と誇りを持つのだ・・”
”皆の為に生きよ・・・”
その声がかろうじてアトゥイの自我を繋ぎとめた。
”ミチ!ここはどこ?ミチはどこにいる?”アトゥイは深淵なる闇の中で叫んだ。
「ここだ!ここにいるぞ!アトゥイ!」
イカエラの咆哮にも似た大声が聞こえた。
それがアトゥイをうつつよに引き戻した。
ぼんやりとだが二人の人の姿が見える・・・
一人はミチだ・・もう一人は・・カイシュン・・シサムのくせにアイヌを理解する男・・
「アトゥイ!」ミチの大声が聞こえる。
「アトゥイ!」カイシュンの声も重なった。
重い・・重い瞼を開く。
今度ははっきりと二人の姿を見た。
二人は涙ぐんでいる様に見える・・
「ミチの声が聞こえた・・」
「なに?」
「ミチの声が聞こえたんだ・・」
イカエラはアトゥイを抱きしめていた。
こんなにも嬉しく、喜びを感じたのはどれくらい前だったのか・・
イカエラに抱きしめられたアトゥイは、海竣にシサムの言葉で言った。
「長い間眠っていた様な気がする・・あれからどれ位経った?」
「13日だ!13日お前は眠っていたんだ!」
海竣も涙ぐんでいる。
”そんなにも眠っていたのか・・体がだるい・・体が重い・・”
動かそうとした腕が、じれったい程緩慢に動く・・
アトゥイは長い眠りから、とうとう目覚めたのだ。




