恐怖
平泉郊外、西の荘園に冬の朝が訪れる。
草木には白く霜が降り、霜柱が土を押し上げ光を反射している。
陽光に暖められた大地からは靄が立ち上がり、凍てつく大気の情景に幻想的な世界が広がる……。
そんな静かで美しい朝だった。
冷たい空気が寝床を離れ難くさせ、鷲塚三郎は布団の中で大きく身震いした。
今少し……などとうつらうつらしながら、悪い夢見のような物想いに耽った。
昨日もまた盛春様はどこぞに行かれたのか……。
目を開け天井を見つめる鷲塚三郎の心中は、目覚めと共に最悪になった。
朝の目通りには必ずと言っていいほど仮屋にいた盛春だったが、ここ数日はその姿が見れなくなっていた。
夜中に何をなさっておられるのか……あの地震以来、主は以前とは別人のような体格になってしまわれた……いったい何が起こっているというのか?
郎党の筆頭である自分が、このまま打ち捨てておいて良いものであろうか?
ならば……成すべき事とは何か? と暫く布団の中で自問していたが、
悩んでいても始まらぬ。今夜盛春様の後をつけてみよう。存外、女の元にでもしけこんでいるだけなのかもしれん……。
そんな事であれば、何も思い煩う事はないのだ。”
ここ数日悩んでいた事に対処を見つけ、気が楽になり冷気に身を起こした。
昼近くになって、弓矢の鍛錬をしている同じ舘平家の家人である原西孝信に仔細を告げ、協力を仰いだ。
「さようか……わしも気になっておったところよ。あの鬼の洞穴に行ってからおかしくなられたように思えてならぬ。盛春様があの洞穴から降りてきた時、おかしな刀をお持ちでな・」
「存じておる。館に帰られた時に見かけた」
「何度かお尋ねしてみたが、御応えくだされないのだ」
暫く沈思した孝信は、
「よかろう。その役目わしが務めよう」
「本当か? この舘平家一の剛の者と言われる孝信が行ってくれれば心強い」
「こそばゆい事を言うな」
「主の後をつける……などと情けないものだが、このままでは埒があかぬ、まかせておけ」
「頼みいる。女の所にでもしけこんでいてくれているのであればいいのだが……」
「御妻女を亡くされたばかりだからな、我らに憚られているだけなのかもしれん」
「ならばよいのだが」
見上げた鷲塚の目に、天高く雲一つない青空がしみた。
子刻(午前零時頃)になろうかという深夜、盛春はごそごそと何かしている。
そんな様子を仮屋の前の立木の陰から、寒さに震えながら鷲塚と原西は盗み見ていた。
現代のように照明が照らし出す世界ではない。
一本の燭台に照らし出された室内は濃い影をつくり、盛春の顔すら良くは見えない。
盛春が時折上を向いてクンクンと匂いを嗅いでいる所作は、どこか獣じみていた。
暗闇に潜む二人は、近くにいるお互いの姿すら見えぬ事に安心しながらも、そんな様子を気味悪く見ていたが、ふいに盛春が二人の方を向いた事に驚いた。
影の落ちた盛春の顔で、両目だげがまるで獣のように不気味に赤く光っていた。
それは不気味に赤く光っていたのだ。
「そこに……いるのは誰だ?」
二人は咄嗟に逃げ出した!
逃げるべきではないのは分かっていたが、生物としての本能がそうさせた。
馬屋をまわり門から逃げ出そうと、築地塀と建屋の間の通路に駆け込む。
が、二人は足を滑らすように立ち止まった。
門の上の櫓に赤々と光る両の目を見たのだ。
二人の背筋が凍りつく。
「ぬし……らは鷲塚と……原西。何故……わしを覗き……見ていたのか?」
どのようにここまで先回りしたのか? 寒中の二人の総身に汗が噴き出る。
「見、見廻りでございまする! さいっ最近、ぶっ物騒な事が多いので!」鷲塚が言った。
盛春の赤い目は二人を値踏みするかのように見ている。
「しっ! 失礼を致しました! ご容赦下さい!」原西も必死になって言い募った。
「では……何故逃げた?」まるで地の底から響いてくるかのように二人には聞こえた。
二人はごくりと唾を呑み込む。
盛春の影が、どさりと櫓から飛び降りた。
二人は腰が引ける。
「まぁ……よい」
鷲塚と原西は許されたのかと思い、安堵しかけた。
「ちょうど……よいわ。手間が省けた……というものよ」
何を言っているのか? 二人は顔を見合わせた。
盛春が歩み寄って来る。
原西が恐怖に負けて太刀を抜いた。
「おとどまりあれ!」
つられて鷲塚も抜刀する。
「あるじに……太刀を……向けるか」
月明かりに浮いた盛春の顔は笑っている。
その口からは長い涎が垂れ、どしゃり……どしゃりと歩み寄って来る。
我らを喰らう気だ……。
信じられない事だったが、二人は生物としての本能から全てを察したのだ。
「わぁあああああああっ!」原西が斬りかかった。
「ギィンッ!」
舘平家一の剛の者と言われる原西が、恐怖から渾身の力で撃ち込んだ一太刀を片手の直刀で軽く払いのけた。
原西は体勢を崩して盛春の横を倒れかかる。
その原西の首を後ろから盛春は掴んだ。
盛春の異様に伸びた爪が首に突き刺さり原西が苦悶の悲鳴を上げ、それを助けようと鷲塚は背後から斬りかかる。
盛春は片手で原西を鷲塚に投げつけた。
咄嗟に刀を引いた鷲塚と原西は、重なりあうように転がる。
なんという膂力か……。
二人は恐怖から立ち上がる事も出来ずに後退った。
「がぁぁぁあああっ!」
盛春が巨獣の咆哮かと思える声を発し、その両の目は赤々と光っている。
武士たる者、素手ならばいざ知らず、刀を握ればそこからふつふつと闘志が湧いて出てきて、原西も鷲塚も闘志が恐怖に打ち勝った。
二人は勢いよく立ち上がると、原西が撃ちかかる!
「もはや我が主ではない!」
盛春は斬りかかって来た原西の手を掴むと、もう片方の手で首を掴み一気に原西の腕を肩から引きちぎった。
「ブチブチッ」と筋肉繊維や血管のちぎれる音がし、
「ぎゃぁぁああああああ!」原西が叫ぶ。
首を掴み、白目をむき藻掻く原西を片手で押さえつけている盛春が……。
原西の腕を喰ろうておる……。
骨を砕くバリバリという音が響き、発狂した原西が喚いている。
がたがたと震え出した鷲塚は、そこまでが限界だった。
盛春に背を向け逃げ出した。
「わぁあああああああっ!」
門の前に立つ盛春から逃げるとなると、袋小路の敷地内しかないが無我夢中に駆け戻る。
馬屋の角を曲がり、雑木の中に飛び込み身を隠す。
意外にも盛春は追ってこなかった。
「ぎゃぁあああああっ!」
原西の断末魔の叫びが響き、じゅるっじゅるっ……ばりっぼりっ、とすすったり咀嚼したり、骨を噛み砕く音が聞こえる。
耳と目を塞ぎ、鷲塚は必死に堪えた。
暫くし物音が止み静かになると、耳の奥がキーンと鳴り始める。
盛春様はどこかに行ってしまったのか? 助かったのか?
「はぁはぁはぁ……」という自分の息遣いが大きく聞こえ、それを何とかしようと息を止めては苦しくなりまた息をする。
そんな何度目かの後、はっとして見上げた。
馬屋の屋根に黒々とした盛春の赤い両目が光っている。
「ぎゃぁぁぁあああああああ!」
舘平家の敷地に鷲塚の悲鳴が響いた。




