安息
巌鷲山周辺では、雨が上がり雲間から陽が射してきた。
追われ襲われ山を駆け下って来たので、巌鷲山の美しさに目をやる余裕はなかったが、アトゥイが小康状態となり落ち着いてきた事で、晴れあがっていく荘厳な巌鷲山の頂きを改めて見上げる余裕が出来た。
雲間から射す暖かな秋陽は帯をなし、巌鷲の頂きに後光が射しているかのようで、先程の悪夢の光景が嘘のように落ち着いて見える。
下山した二人は暫く安静にさせたいアトゥイのために、民家を探し巌鷲山の中腹から見えた田園を目指していた。
枯葉積もる林を二人は黙々と歩き田園近くまで辿り着くと、刈り入れを済ませた田には稲木が並び数人の農民が作業していた。
海竣はイカエラを木の陰に待たせ、彼らに向って歩いて行き手前の男と目を合わせた。
左肩が異常に腫れ上がっているのが、ぼろぼろの着物の上からでも分かる。
山伏の姿に気付いたその男が深々と頭を下げるのは、山伏が冷厳あらたかな畏敬の対象であるからだ。
海竣はその男に歩み寄りながら声を掛けた。
「忙しいところすまぬな。その左肩は如何した?」
「へぇ……」その男は黙り込んでしまった。
「大きな蚊に吸われたのではないか?」
与兵衛は目をむいて驚いた。
「どしてぇそれぁ知ってなっす?」
「ぬしを襲った蚊は精の濁流にあてられた後、人の血、氣を微量に吸って巨大化したものだ」
「あれはぁ、なんなっす?」
「ぬしに言うても分かるまいが、鬼の神が胎堕する時に発せられる精の奔流に触発されしものだ」
「鬼!」与兵衛は腰を抜かしてしまった。
「大丈夫だ、安心せい」そう言うと海竣は錫杖を与兵衛の左肩の上にかざし、小声で真言を唱えた。
「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ……」
与兵衛の左肩の痛みと腫れが引いていく……。
真言を唱え終わると、左肩は元の状態にまで戻った。
与兵衛は涙を流しながら、
「ありがとなっした! ありがとなっした!」
孫七が死んだ夜から少しずつ腫れ上がっていき、自分の肩はどうなってしまうのかと不安と恐怖に押し潰されそうになっていたのだ。
「ぬしに頼みがあるのだが……無理にとは言わぬ」
「なんでも言ってくなんしぇ!」
「親子二人を暫く預かって欲しいのだが……」
「親子二人でぁ?」
「鬼を退治するほどの剛の者達だ。ぬしも安心できよう」
「鬼を退治したぁ!?」与兵衛は再び腰を抜かすほど驚いた。
「その鬼を退治した時に大怪我をしてな。暫く安静に出来る場所が必要なのだ」
「そりゃぁ、うざねへぁしまったな~」(それは苦労しましたね)
「おまかせくなんしぇ! 食いもんはねぁでぁすが、夜露をしのぐあばら屋ぐらいはぁありますけ」
「うむ、助かる。ここの領主は誰か?」
「田知頼政様でぁ」
「我からぬしに便宜を図るように申し伝えておこう」
海竣はイカエラを呼ぶと、二人の顔合わせをした。
与兵衛が子供を背負っている親子の姿を見ると、髭面に青い目、見た事もない衣を纏い羆を思わせる巨体は不気味に思えた。
それを察した海竣が、
「この者達は少々異相だが、人品が立派で信用できる事は我が保証する」
「へぇ……」
イカエラと海竣は与兵衛の案内で彼の荒屋に行きアトゥイを寝かしつけ、海竣は領主の田知頼政の居館に一人で歩いて行った。
残された三人は言葉が通じず気まずい空気が流れる中、アイヌを見た事が無かった与兵衛は物珍しそうにイカエラとアトゥイを眺めていた。
与兵衛はアイヌの存在を知らなかったが訳だが、逆にそれが良かった。
与兵衛に偏見があれば、二人に対する接し方や対応がぞんざいなものになったであろうし、この後もまた違った結果になっていただろうからだ。
見た事もない服装をした大男が一心不乱に子供の手当をしているのを見て、親子の情は共通のものであり、人として何ら変わらない事を確認出来た事で、情や慈しみの思いが生まれ、桶で水を汲んできてやったり、囲炉裏の火を強くしたりと手を尽くし始めた。
イカエラの感謝の気持ちは自然と与兵衛にも伝わり、イカエラは与兵衛にシサムにありがちな偏見や差別が無い事が分かった。
時が経つにつれ少しずつ心が通い合い、言葉が通じないまでも意志の疎通が図れるようにまでなってきた。
陽が落ちイカエラが御礼にと手渡した保存食を与兵衛が不思議そうに食べている時、海竣が帰って来た。
「万事うまくいった。与兵衛、明日領主殿から米と寝具が届くはずだ」
「へぇ!」
海竣はアトゥイの枕元まで行くと、
「大変世話になった。感謝してもしきれぬほどだ……巌鷲の山頂で見た事を急ぎ高野山へ知らせに戻らねばならぬ」
イカエラが頷き、海竣も頷く。
それほどまでに彼らは心通じていたのだ。
海竣は意識の無いアトゥイの手を握り語りかけた。
「アトゥイ。心を強く持つのだ。負けるな。負けてくれるな!」
海竣は口の中で真言を唱えると立ち上がった。
「では行ってまいる! 与兵衛、二人を頼むぞ!」
「へぇ!」
海竣は踵を返し小屋から出て行く
帳の落ちた夜の闇には、得体の知れない澱んだ重苦しい空気が漂っていた。




