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婚約破棄された魔法測量士は、辺境伯の白地図に春を描く  作者: 銀細工ナギ


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4/20

はじめての測量隊

 宿場の広場に人が集まったのは、昼を少し過ぎたころだった。


 老番兵が声をかけて回ってくれたのだろう。縄を担いだ若者、氷割り槌を持つ石工、毛皮の帽子を深くかぶった水車小屋の女主人、そして遠巻きに眺める子どもたち。誰もが寒さのせいだけではない硬い顔をして、エルナの胸元の王立測量士章を見ていた。


「この方が、王都から来られた測量士様だ」


 老番兵の紹介に、ざわめきが広がる。


「王都の地図で堤が傷んだんだろう」

「また線を引かれて、今度は畑を取られるんじゃないか」


 小さな声は雪の上でよく響いた。エルナは外套の前を握りしめかけ、指を開いた。ここで目を伏せれば、彼らはますます不安になる。


「エルナ・セルヴィックです」


 彼女は測量杖を立て、深く頭を下げた。


「王都の誓図が、この土地を守れなかったことは事実です。だから私を信じてくださいとは言いません。今日これから、私がどこを測り、何を見て、どう記すのかを皆さんの前で示します。おかしいと思ったら、その場で止めてください」


 広場が静まった。


 オスカーは一歩後ろで黙っていた。領主の命令で押し切ることもできるはずなのに、それをしない。エルナ自身の言葉で隊を作れということなのだと分かり、胸の奥が冷たい空気で満ちた。


「必要なのは、縄をまっすぐ張れる方が二人。杭を運べる方が二人。氷の割れ目を見る方が一人。水路の古い流れを知る方が一人。それから、測った数を復唱してくださる方」


「測量隊、ということか」


 石工の男が太い眉を上げた。


「はい。私一人では、白地図に線は引けません」


 その言葉に、水車小屋の女主人が小さく笑った。


「王都の先生が、私らの手を借りるのかい」


「水の癖は、毎日見ている方にしか分かりません」


 女主人はしばらくエルナを見てから、腰の布袋を結び直した。


「私はマルタ。水車小屋は十年前に止まった。昔の流れなら覚えているよ」


 それを合図に、若者たちが互いに顔を見合わせた。石工の男は槌を肩に担ぎ、ぶっきらぼうに名乗る。


「ガルドだ。杭くらいは打てる」


「縄なら俺たちが張る」


 少年に近い二人が手を挙げた。まだ疑いは残っている。けれど、誰も背を向けなかった。


 エルナは白地図の筒を開き、広場の中央に羊皮紙を広げた。雪明かりの中で、紙面は何も描かれていない湖のように白い。その空白を見た者たちが息をのむ。


「ここに、旧スノル水路と東の低地を記します。線を決めるのは王都の写しではありません。土地そのものです」


 測量隊は、ぎこちない足取りで旧水路へ向かった。


 エルナは先頭に立たず、マルタを先に歩かせた。水車小屋の女主人は雪の盛り上がりを足先で探り、ここは昔浅かった、ここには春になると泡が立った、と短く告げる。エルナはそのたびに杖を立て、銀砂を落とした。


 砂は嘘の白線に従わない。右へ流れ、石組みの下で途切れ、また少し先で淡く光る。


「縄、東へ三間。いいえ、半間戻してください。杭はそこです。ガルドさん、深く。凍土を抜いて、下の硬い層まで」


「そんなに打つのか」


「浅い杭は、春の水に抜かれます」


 ガルドは一瞬だけ王立測量士章を見たが、すぐに槌を振り下ろした。鈍い音が冬の森へ響く。一本目の杭が立ったとき、エルナの胸にも、小さな杭が打たれたような感覚があった。


 王都では、彼女はいつも補佐だった。上席測量士の後ろで数値を取り、ジェラルドの顔色をうかがい、間違いを見つけても言葉を飲み込むことがあった。隊を止め、進ませ、誰かの名を呼んで頼るなど、したことがない。


「セルヴィック嬢」


 オスカーの声に振り向くと、彼は凍った水路の縁で手綱を押さえていた。


「指示は明確だ。続けてくれ」


 ただそれだけで、背中が少し伸びた。


 午後の光が傾くころ、白地図には初めての線が浮かんでいた。旧水路の直線ではない。森の根を避けるように曲がり、東の低地へ落ち、さらに北の古い石壁へ向かう淡い青の線。その先で、紙面に小さな黒点が現れた。


「これは何だ」


 オスカーが目を細める。


 マルタの顔色が変わった。


「旧水門だよ。水車小屋が動いていたころ、雪解け前に必ず見回った。けれど、そこはもう埋めたはずだって、役人が」


「埋めたのではありません」


 エルナは白地図に手をかざした。黒点の周りで、地脈が固く結ばれている。自然の詰まりではない。水の通る扉を、上から無理に押さえつけている。


「閉じられています。しかも、誓図には存在しないことにされている」


 隊の空気が変わった。疑いではなく、寒さでもない。目の前の線が自分たちの暮らしにつながっていると、皆が気づき始めていた。


 ガルドが槌を握り直す。


「開けられるのか」


「今すぐ壊すのは危険です。下に水が溜まっています。明朝、支えを組み、逃がす溝を確保してから試します」


「なら、俺は夜のうちに材を運ぶ」


「縄も残していく。凍ったら困るだろ」


 若者たちが口々に言った。エルナは一人ひとりの顔を見た。昼の広場にあった硬さは、まだ完全には消えていない。それでも、彼らの足は同じ方向を向いている。


 はじめての測量隊。


 その言葉を心の中で呼ぶと、白地図の青い線がかすかに明るくなった。


「ありがとうございます。明日、旧水門を開ける準備をします」


 オスカーがうなずき、隊を見渡した。


「今日の測量は、レイヴェル領の正式な記録とする。名を残したくない者は申し出ろ。残したい者は、セルヴィック嬢に名を告げてくれ」


 最初に進み出たのは、マルタだった。


「水の道を戻せるなら、私の名くらい好きに書きな」


 それに続いて、ガルドが、若者たちが、老番兵が名乗った。エルナは一つずつ復唱し、白地図の端に記していく。線だけではない。この土地を測った人の名も、ここには必要だった。


 夕暮れの空の下、閉ざされた旧水門の方から、低く水の鳴る音がした。


 それは警告にも聞こえた。けれどエルナには、長く忘れられていた場所が、ようやく返事をした音にも思えた。

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