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婚約破棄された魔法測量士は、辺境伯の白地図に春を描く  作者: 銀細工ナギ


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13/20

国境堤、再び揺れる

 北堤へ向かう馬車は、まだ祭りの飾りが残る町を抜けるころから揺れ始めた。


 地面そのものが震えている。車輪が石を踏む揺れとは違う、腹の底を撫でられるような低い震動だった。エルナは膝の上の白地図を両腕で押さえ、窓の外を見た。屋根の雪解け水が細く落ち、道端の土は黒く濡れている。春の気配が、いまは不吉な湿りに見えた。


「測量杭が三本、同時に抜けたと言ったな」


 オスカーが向かいの兵に問う。兵は蒼白な顔で頷いた。


「はい。北堤の旧基準杭です。封印の縄は切られておらず、杭だけが地面から押し上げられたように」


「自然に抜けたのではありません」


 エルナは思わず口を挟んだ。視線が集まる。恐れはあったが、白地図の端に指を置くと声は保てた。


「旧基準杭は、地脈の流れを堤の内側へ逃がすための留め具です。三本同時に浮いたなら、下から力が来たのではなく、誰かが誓図の上で留めを外した可能性があります」


 オスカーの目が鋭くなる。


「原図を使ったか」


「または、その写しを」


 盗まれた原図。ダリオの帳簿。王都へ戻したはずの取り消し命令。ばらばらに見えたものが、国境堤の下で一本の黒い線になってつながっていく。


 監視塔に着いた時、北の空は鉛色だった。国境堤は雪解けの水を抱え、長い獣の背のように湿った土を盛り上げている。堤の麓には兵と村人が集まり、抜けた杭の跡を遠巻きに見ていた。


「下がってください。線を踏まないで」


 エルナは測量杖を握り、泥に膝をついた。杭の穴はただの空洞ではない。縁に薄い銀色の粉が残り、指先を近づけると冷たい痺れが走った。


「王都式の封蝋粉です。地脈を一時的に眠らせるためのもの」


「辺境には備蓄がない」


「はい。王都の測量局か、そこに出入りできる者でなければ」


 兵たちの間に低いどよめきが広がる。エルナはそれを聞き流し、穴の周りへ細い石筆で円を描いた。白地図を広げると、国境堤の部分だけが淡く曇っている。前話の書庫でともった若草色の点はまだ残っていたが、その先に黒い滲みが絡みついていた。


「堤を壊すためではありません」


 エルナは小さく息を吸った。


「壊れる寸前まで揺らして、辺境の復旧が失敗したように見せるためです。私が引いた新しい水路線と、辺境伯家の白地図を否定するために」


「つまり、王都審理の前に証拠を汚す気か」


 オスカーの声は低く、しかし怒鳴らない。それがかえって周囲を静かにさせた。


「堤は持つか」


「いまなら」


 エルナは泥に手をつき、地面から返ってくる震えを読んだ。恐怖で指が冷える。けれど、その震えの奥に、水門を開いた日の流れがあった。辺境市の灯りを支えた流れがあった。


「仮杭を打ちます。北へ逃げる地脈を三刻だけ留めれば、堤は崩れません。ただし、旧杭の位置をそのまま使うと偽の線に引き込まれます。半歩ずらして、春の流れへつなぎます」


「必要なものは」


「鉄ではなく白樺の杭を。生木でなければ定着しません。それと、ここにいる全員の退避路を先に確保してください。私が失敗した時、堤の前に人を残したくありません」


 オスカーは一瞬だけ彼女を見た。その瞳に、守りたいという言葉が浮かんでいるのが分かる。だが彼はそれを飲み込み、兵に命じた。


「南斜面へ村人を移せ。馬車は子どもと老人を先に乗せる。伐採班は白樺を三本、根元から急げ」


 命令が走り、凍っていた場が動き出す。エルナは白地図の上に測量杖を立て、仮の誓線を引いた。線は震え、黒い滲みに弾かれそうになる。


「セルヴィック嬢」


 呼ばれて顔を上げると、ミラが息を切らして坂を上ってきていた。王都へ送る書類を抱えたまま、裾を泥だらけにしている。


「監視塔の記録棚から、封印台帳を見つけました。旧杭の最終確認者の名があります」


「誰ですか」


 ミラは唇を結び、紙片を差し出した。そこには丁寧すぎる筆跡で、ジェラルド・クラインベルの署名があった。


 エルナの胸が一度だけ強く鳴る。婚約破棄の夜、彼が笑っていた顔がよみがえった。だが今、彼女の前にいるのは彼ではない。避難する村人、白樺を担ぐ兵、泥の中で隣に立つオスカー。そして、まだ空白を残した白地図だった。


「記録官殿、その台帳を保全してください。王都で必ず使います」


「もちろんです」


 ミラが頷く。エルナは三本の白樺杭を受け取り、一本目を半歩ずらした地面に置いた。


「これより仮誓図を定着します。国境堤を守るための測量です。誰の罪を隠す線でも、誰かを追い出す線でもありません」


 測量杖の先が若草色に光った。杭が泥へ沈み、地鳴りが一段高くなる。黒い滲みが白地図の上で暴れ、偽の水路線へエルナの筆を引き戻そうとした。


「エルナ」


 オスカーの声がすぐ隣にあった。


「俺はここにいる」


 それだけでよかった。エルナは震える手を押さえつけず、その震えごと線に乗せた。怖くても、正しい場所を選ぶことはできる。


 二本目、三本目。白樺杭が地中で光を結び、堤の下を走る濁った脈をゆっくりと春の流れへ逃がしていく。やがて腹の底を撫でていた震動が遠ざかり、監視塔の鐘が一度だけ鳴った。


「止まった……」


 誰かが呟いた。次の瞬間、南斜面に避難していた人々から安堵の声が上がる。エルナは膝から力が抜け、泥に座り込んだ。


 白地図の国境堤には、三つの若草色の点が灯っていた。そのすぐ脇に、銀灰色の細い傷跡が残っている。偽の線が触れた証だ。


「これで、隠せなくなりました」


 ミラが台帳を胸に抱きしめる。


「旧杭の署名、王都式の封蝋粉、そして今日の仮誓図。審理に必要な線がそろいます」


 オスカーは泥に膝をつき、エルナへ手を差し出した。


「戻ろう。裁定官を迎える準備をする」


「裁定官が、来るのですか」


「今朝、王都から伝令があった。ダリオの商会が、辺境伯家こそ国境堤を危険にさらしたと訴えたらしい」


 風が堤の上を吹き抜け、抜けた旧杭の穴でかすかに鳴った。


「裁定官の馬車は、明日の昼には着く」


 エルナは差し出された手を取り、立ち上がった。泥で重くなった裾の下で、地面はもう揺れていない。


 けれど、王都の嘘は馬車に乗って来る。


 ならば迎え撃つために、彼女はもう一度、白地図を開くのだ。

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