第1話 兄様が笑った日
兄様がはっきりと笑ったように見えた。
これまで百年程生きてきて、初めて見る笑顔だった。
鬼族にとっては、まだ、短い生涯。
それでも、兄様は、誰よりも深く、生き抜いた。
そしてその瞬間、アタシの意識は途切れた。
戦場は精霊が騒がしかった。
火の精霊が怯えていた。風の精霊が叫んでいた。
魔物のスタンピード。
サングラディア始まって以来の規模だった。
足元には仲間の屍が転がっていた。
赤鬼の戦士たち。エルフ、ドワーフ。
アタシは戦斧を振り下ろした。
返り血が、肌を赤く染めていた。
アタシのすぐそばで、兄様が立っていた。
風に揺れる白い髪。冷たいほどに澄んだ目。
表情ひとつ動かさず、淡々と、魔物達を素手で薙ぎ払っていた。
兄様は、小柄で、虚弱で、長く生きられない身体だった。
それでも、誰よりも強かった。
そんな兄様をアタシは知っていた。
兄様は感情を強く動かすことが体に悪いから、いつも無表情に見える。
本当は、口角と眉の動き、目を見れば、感情は豊かなのだけど。
アタシは幼い頃から、それを読み取れる数少ない人間だった。
だから、わかった。
兄様がはっきりと笑ったように見える。
百年程生きてきて、初めて見る笑顔だった。
その時、ぞわり、と。
何かが、背筋を撫でた。
遠くに、何かがいる気がした。
兄様だけが、それを見ていた。
兄様の目が、遠くを見ていた。
何かを見定めるように。
兄様がゆっくりと、息を吐いた。
百年こらえていたものを放すように、ゆっくりと。
兄様は、百年、いつも息を整えていた。
胸の痛みを奥に届かないように、逸らしていた。
そうしないと生きられない身体だった。
そんな兄様を、アタシは小さな頃から知っていた。
しかし、その時の兄様は違った。
息を整えなかった。
揺れを逸らさなかった。
痛みを、奥まで届かせていた。
百年こらえてきたものを、すべて、抱えたまま。
そして、笑った。
アタシはその笑顔を知っていた。
両親が黒鬼に殺された夜、アタシの頭を撫でながら寄り添ってくれていた兄様は同じ顔をしていた。
少年だった兄様が王になると宣言したあの日、同じ顔をしていた。
何かを覚悟した時の、兄様の顔。
何かを失う時の、兄様の顔。
「に、兄様、何を——」
聞こうとした。
聞かなければならないと思った。
「兄様……っ」
最後まで言えなかった。
兄様の手がアタシの額に触れた。
ただ、それだけだった。
それだけで視界が暗転した。
意識が遠のく寸前、兄様の声だけが聞こえた。
いつものように、淡々とした声だった。
「シグナ・グレ・トゥムス」
兄様の、口癖だった。
戦友に。民に。アタシに。
誰にでも、別れ際に、必ず、贈った。
死を抱える者が、生き残る者に贈る、鬼族の祈り。
「今を、精一杯、生きよ」
それが、兄様の、最後の言葉だった。
どれくらい気を失っていたのか、わからない。
目を開けた時、空は灰色だった。
赤い空ではなかった。
燃えていた空ではなかった。
ただ、灰色の空が広がっていた。
身体を支えていたのはリーフェだった。
冷静で厳格なあの子が震えていた。
「イグ姉……」
リーフェがアタシを呼ぶ声も、震えていた。
「兄様は」
アタシは聞いた。
リーフェは答えなかった。
「兄様はどこ」
アタシはもう一度聞いた。
リーフェは答えられず、ただ、震える手でアタシの頬に触れた。
リーフェの目から、涙が落ちた。
この子が泣くのを見るのはいつ以来だろう。
アタシは振り返った。
そこには何もなかった。
森も、岩も、川も。
魔物達も。
そして、兄様も。
視界の限り、すべてが消えていた。
何万もの魔物が跡形もなく。地形すら、変わっていた。
後にこの一帯は「唯一王の聖地」と呼ばれるようになる。
ハクレンは自身を最後の王として、評議国を遺した。
故に、王はただ一人。
ドワーフ達が、感謝の証として、巨大な銅像を建てた。
国民が神の業として、語り継ぐようになる。
しかし、アタシにとっては、ただ、兄様の消えた地だった。
ただ、兄様が消えていた。
それだけがすべてだった。
兄様が最後に笑った理由をようやく理解した。
兄様は遠くにいた魔人を見つけていたのだ。
ここで戦えば仲間を巻き込む。だから一人で向かった。
一人で向かって、一人で消えた。
理解したくなかった。
百年生きてきて、アタシはあの人の笑顔を一度も見たことがなかった。
最初で最後の笑顔がこれだった。
「……兄様」
風が吹いた。
兄様の白い髪を揺らしていた、あの優しい風がもう揺らすものを失って、ただ吹き抜けていった。
アタシの頬を撫でて、消えていった。
「……兄様」
返事はなかった。
返事は二度と聞けないのだと、理解したくなかった。
それから、百年が、過ぎた。
兄様が消えてから、もう、百年。
アタシは戦い続けた。
死に近い戦場で、兄様を感じたかっただけだった。
気がつけば、大陸最強と呼ばれていた。
国軍の長になり、ゴロツキ共と戦ってる。
百年経っても、忘れられない。
百年経っても、怒っている。
兄様がアタシを置いて逝ったことを。
兄様が最後に笑った理由を。
そして、その日が来た。
百年ぶりに兄様の気配を感じた日が。




