鍛冶師の村(2)
心地よい日差しが差し込める森の中、さわやかな風が森の渓流を吹き抜けていく。流れる水面が光を照り返し、きらきらと輝いていた。水の中を大きく育った川魚が群れて泳いでいる。
ふと何かが空を切り、水しぶきが上がった。音の主はまだ幼い男の子だ。短い黒髪と薄く透き通るような緑色の眼。少し短めの釣竿をもったその表情は真剣そのものだ。
「影が水面に掛からないようにするんだぞ、魚が驚いて逃げるからな」
リュウオウの隣で腰を下ろし、慣れた手つきでもう一本の釣竿を操っていたのはリュウレイ。リュウフォンから分けてもらったお菓子を頬張りながら、久々の釣りを楽しんでいた。
納品の翌日は大体工房は休み。昨日の一件もあるし今日一日くらいゆっくりしても罰は当たらないだろう。まあ、自業自得と言われればそれまでなのだが。
先ほどまで近くにいたリュウフォンはリュウサンを連れて、花摘みに出かけている。女の子ということもあり、釣りには興味が無いサンは大好きな母親に花輪を作ってあげたいとはしゃいでいた。
それならと、今度はリュウオウが魚をたくさん釣って、みんなに食べさせてあげると言い出した。二人の競争に付き合う形でリュウレイたちは分かれたというわけだ。
最初は元気よく釣り糸を垂らしていたものの、なかなか思うようには行かずリュウオウはあちこち釣る場所を転々としては、また元に戻るのを繰り返していた。
「そんな動いたって、魚は釣れないぞ。こういうのはじっと構えるのが基本なんだ。気長に待たないとな」
「そんなの僕、わからないよ――」
リュウレイの言葉に、リュウオウは頬を膨らませる。さすがに一匹くらい釣り上げて帰らないと妹に笑われてしまうと思っているのだろう。かくいうリュウレイもはじめのころは悪戦苦闘の連続だった。餌が悪いのか、釣竿が悪いのか、それとも針につける飾りを工夫しないとだめなのか。
試行錯誤を重ね、何とか釣果を確保できるようになって喜ぶリュウレイの横で、義母から借りた仕掛けを使い、姉のリュウシュンは難なく魚を捕まえていた。それまでの自分の努力を台無しにされた気がして、当時は怒りを抑えるのに苦労した。
今のように釣りの楽しさを理解するには早すぎたし、そんな余裕もなかった。
「あ、レイ! また引いてるよ!」
「ハイハイ、焦らなくてもわかってるよ……ッと!」
釣り上げた魚を網の中に救い上げ、釣り針を外して木の皮で編んだ籠の中に放り込む。中にはもう10匹近い魚が跳ね回っていた。リュウオウは落ち込んだ様子でそれを見ていた。
リュウレイは自分の釣竿を横に置くと、リュウオウを自分の膝に座らせて釣竿の使い方を教えることにした。
「いいか、リュウオウ。釣りっていうのは、魚がえさに食いついてくれないと始まらない。うまく餌を魚のいるところに運ぶことが重要なんだ、見てろよ……」
リュウオウの短い釣竿をなるべく流れの穏やかなところ目掛けて、手首の動きだけで振り出す。空を切る小気味よい音とともに、水面に小さな水しぶきが上がる。
「……レイってすごいんだね」
「これくらいで感心してたら、魚なんて釣れないぞ」
水の流れに糸が揺らめいている。風が木々を揺らす音だけが響くこの場所で、リュウレイとリュウオウは静かにその時を待ち続けた。やがて、鳥の影が近くを過ったその時、糸が強く引いた。
「……レイ!」
興奮した様子でリュウオウが囁く。リュウレイは片手でリュウオウの頭を撫でながら、一緒に釣竿を引き上げた。すると、若干小ぶりながら、激しくのたうつ魚を釣り上げることができた。
「レイ、僕やったよ! 魚、釣れたよ!!」
「うん、よくやったな。初めてにしては上出来だ。次はもっと大きいのを狙おうな」
「うん!」
リュウレイは糸を手繰り寄せ、魚をつかむとリュウオウに手渡した。初めは戸惑っていたリュウオウもリュウレイの顔を見ると得意げな笑みを浮かべて、籠の中に魚を放り込んだ。
「昼まではまだ余裕があるし、もう少し頑張るとしようか。これだけだと義姉さんが納得してくれそうにないからな――」
「うん、そうだね。母上の分まで、僕頑張るよ!」
「よし、その意気だ」
年の離れた弟を見る思いでリュウレイはそれから付きっ切りでリュウオウに釣りの仕方を教えることになった。
… … …
それからしばらくして、リュウオウも自分で竿を振るえるようになり、リュウレイも自分の竿で釣りを再開した。
日も大分高くなったころ、不意に人の気配を感じた。
「その分だと、大分釣れたようね――」
「ん?」
鈴の鳴るような若い女性の声が耳元近くで響いた。それは穏やかで聞いたものの心を解きほぐすような安らぎに満ちている。まるで荒々しい自分とは正反対の落ち着いたその声にリュウレイの心は一気にささくれだった。この世で一番身近、一番聞きなれたその声の主はリュウレイの姉その人だからだ。振り返るとそこには一番会いたくない奴がいた。
心地よい陽だまりの中、すやすやと眠る赤ん坊を背負い、この村の女性たちが身につける動きやすい装束を纏い、白い前掛けをした実の姉リュウシュン。この森を満たす柔らかな空気のような微笑みを浮かべたシュンに立ち上がったリュウオウがうれしそうに声をかけた。
「あっ、シュンだ! 僕、初めて魚を釣ったんだよ!」
興奮した様子で得意げに報告するリュウオウにシュンは膝を折って、その頭を撫でた。
「ふふ、そうなんだ。頑張ったわね、リュウオウ」
よしよしと頭を撫でられたリュウオウは満足した表情を浮かべている。自分の前で当たり前のように交わされる二人のやり取りにどこか疎外感を覚える。普段工房で過ごすことの多い自分と毎日、リュウ家の母屋に顔を出して子供たちと遊ぶ機会の多い姉のシュンとではやはり違いはあるのだろうか。釈然としないまま、リュウオウに手を引かれこちらにやってくるシュンをリュウレイは見上げていた。
「義姉さんに頼まれてね、あなたたちを迎えに来たのよ。懐かしいわね、ここでみんなと一緒に釣りをしたことを思い出すわ……」
シュンの言わんとする意味を感じ取り、胸の奥がちくんと痛んだ。
「そうかよ……」
風に舞う髪を抑えながら、自分に話しかけるシュンに背を向けたままリュウレイは立ち上がり魚を入れた籠を水面から引き揚げた。多分もう20匹以上は中に入っているのだろう。ずっしりとした重さと、中で跳ね回る魚たちの生み出す振動が手に伝わってくる。
その時、頭の上からもう一つの聞きなれた声が降ってきた。
「レイ――――――っ!!」
緑の天蓋を突き破るように小さいリュウサンを胸に抱いた、リュウフォンが風を纏い空から降り立つ。サンはフォンの空中散歩が余程楽しかったのか、上機嫌で笑っている。
「お、二人とも帰ってきたか。空の上はどうだった?」
森の奥、高台にある花畑から文字通り空を飛んで帰ってきた二人にリュウレイが声をかけた。
「サン、すごく楽しかった――!」
「きれいなお花がたくさんあって、私もサンも頑張って花輪を作ったんだよ」
そういってリュウレイの頭にフォンが白い花の輪っかを乗せてきた。我ながら似合わないなと思いながら、礼を言うと二人はうれしそうに微笑んでいた。受け取った花輪を自分の背で眠る娘の頭に乗せたシュンも心持うきうきしているように見えた。
「あらあら、そんなに興奮して。サンもフォンも女の子なんだから、もう少しおしとやかにしないと、お嫁にいけないわよ」
リュウフォンたちの方を見たシュンが楽しそうに笑う。
「サンだけずるい、僕も空を飛びたいな……」
すねた表情を浮かべるリュウオウにフォンが近づいてまた今度連れていくと約束していた。
「いつまでもここにいてもしょうがないし、とりあえず工房に行こうか。昼飯まであまり間がないし、待たせると義姉さんが怖いからな」
怒りとともに炎渦巻く義姉の姿を想像し、リュウレイが声をかけるとみんな頷いてそろそろと歩き出した。
「レイ、お手々つないで!」
籠を持つリュウレイの空いた方の手を握ったリュウオウが微笑む。その反対側には姉のリュウシュン。リュウオウに笑いかけたリュウレイだが、彼女と視線が合うと一瞬、顔が強張った。
「ねえ、早くいこうよ――」
フォンに抱かれた、サンが皆を急かす。わかったよと、笑顔で返事をしたリュウレイが歩きだすと隣を歩くリュウシュンがぼそりと呟いた。
「本当に懐かしい、あの人にも見て欲しかった……」
それを聞いたリュウレイはリュウオウの手を握る手のひらに思わず力が入った。
「どうかしたの?」
あどけないリュウオウの問いに、リュウレイは寂しげな笑みで誤魔化すしかなかった。
もう戻ることのない日々、その記憶が今もリュウレイとリュウシュンの心を締め付けていた――。