古の調べ(1)
深く切り立った山々の断崖の間を、強い山風が吹き抜けていく。強い西風に煽られた雲が深く、空を覆い昏くどんよりとした空気が立ち込めていた。その懸崖の中、僅かに迫り出した谷間の裾野に石造りの小さな家々が身を寄せ合うようにして築かれていた。
険しい山塊に隔てられたこの地に至る術は無いに等しい。それこそ空を舞う鳥でもなければ、不可能であろう。
今、その村とも呼べぬ地に住まう人々の心は深い悲しみに包まれていた。今朝、この村の住人の一人が息を引き取ったからだ。小さな二人の姉妹を残し、その娘は天に召された。
村の端にわずかに咲き誇る花をせめてもの手向けに供えてゆく。
幼い子らは目の前の出来事を理解することなく、若い父親の手に抱かれたままただじっと人々の行いを見守っていた。
やがて、高台に設えた台座の上で薄幸の娘は荼毘に付された。その残り火を見守っていたこの村の長を務める女はただ、その様を無表情に見つめていた。炎に照らされた女の瞳と髪は深い緑色を宿していた。
それは鍛冶師の村に住まう、風の乙女と同じものだった――。
… … …
リュウレイが村長の元を訪れてから数日たったある日のこと。その日も空は快晴だった。
リュウ家の裏庭では姫長たるリュウレイの義姉メイシャンが、所狭しと洗濯物を干している。子供たちにリュウレイたちの分まで加われば、かなりの量になる。人手を頼んだらどうかと、以前義妹の一人リュウシュンに言われたことがあったがこれくらいはどうということはない。要は慣れというものだ。むしろ、退屈な日々を過ごすよりこうしてリュウ家の主婦としての務めを果たす方が余程、有意義と言えた。
最後の一枚を干し終わり、メイシャンは一息ついた。日差しも眩しく、心地よい風が盆地を吹き抜けていく。この分なら、洗濯物はすぐに乾くだろう。
「うむ、今日も晴れてなにより! これも我が神の御加護ゆえじゃな」
一人うんうんとうなずいている彼女の視界の端に小さな影が映った。それは風にはためく洗濯物の下にちらちらと見え隠れしている。段々こちらに近づいてくる足は、子供のものだった。メイシャンはふふと微笑むと、その影に向かって声をかけた。
「これ、そこのいたずら坊主。そこで何をしているのじゃ?」
「……僕、見つかっちゃった?」
「丸見えじゃな、もう少し工夫せぬとな」
「うん、わかった。次はもっと工夫するね、母上!」
洗濯物の脇から顔を見せたのはメイシャンのかわいい息子、リュウオウだった。まだ甘えん坊なリュウオウはこうして時々、母のもとに遊びに来る。ちょうど手が空いたところで、お腹が空いてきた親子は、互いに顔を見合わせると母屋の方を見た。
「母上、僕お菓子食べたい」
「この前、フォンが買ってきたお菓子は全部食べてしまったしのう。また、リュウシュンのところから買ってまいるか。では工房の方に行こうかのう」
「うん、リュウレイいるかな?」
「あやつは昼飯時になれば、真っ先に食堂に顔を出すわ!探すまでもないのう」
「そうだね、レイって食いしん坊だもんね――!」
「そうそう、あれでは嫁の貰い手がおらぬ。困ったものじゃて」
のんきな会話を交わしながら、メイシャンたちは村の広場に向けて歩き出した。娘のリュウサンは隣の家に遊びに行っており、不在。仲の良い親子の笑い声が途絶えることはなかった。
… … …
「あ――、腹減った――!! メシメシ――!!!」
昼時を迎えた工房の食堂、そこに飛び込んできたのは黒髪黒眼、いかにも短気でケンカ早そうなたくましい体付きの少女、リュウレイだった。先ほど、午前の仕事が終わりを迎えた頃に大きなくしゃみをしたリュウレイは周囲の先輩たちに大笑いされてしまった。
大方、義姉やリュウフォン辺りが自分の悪口でも言っているのだろうと心の中で毒づいた。どちらにしろ、成長期でおまけに体を使う仕事のリュウレイはともかくとして、人一倍軽く食す義姉やその子供たちに言われるのは釈然としない。以前、リュウレイが久々に料理の腕を披露した時は、残さず親子三人で平らげたくらいだ。その食欲たるやすさまじいものがある。そのため、非常に作り甲斐のある事だけは確かだった。
村の外からやってくる旅人、商人も利用しているため食堂では毎日、日替わりの料理が提供されている。それらのほとんどをリュウシュンが考案しているのだから、我が姉ながら大したものだと思う。
厨房の台の脇に用意された木製のトレーを持ったリュウレイに大盛りの料理を手渡しながら、手伝いの女性が笑いかけた。
「いつものことだけど、リュウレイは元気だねえ」
「そりゃそうだよ! 工房で一番のお楽しみは飯時くらいしかないからね、こればっかりは譲れないよ!!」
「はしゃぐのもいいけど、もう少し振る舞いには気を付けてね?」
「はいはい、食い終わったらリュウキョウの面倒見てやるから、大目に見ろよ! あとフォンの弁当よろしくな!」
にこやかに微笑むリュウシュンがクギを刺すものの、料理を前にしたリュウレイの耳には届いていない。
「フォンもこっち一緒に食べてくれれば、手間が省けるんだけど」
どちらかと言えば、リュウフォンがこの場にいないさみしさをにじませて呟いたリュウシュンはあとからやってきた商人組合の職員たちや鍛冶師に盛り付けた料理を手際よく渡していく。ちなみに工房で働く鍛冶師たちの代金は組合持ちなのでリュウレイは気兼ねなく好きなだけ食べることが出来た。義姉と子供たちも時々来襲することを考えれば、ありがたい措置だといえよう。
「今日はそんなに忙しくないし、フォンのところでゆっくりしてもいいよな」
たまにサボりたくなるリュウレイは朝、別れて森へ向かうリュウフォンの笑顔を思い出し独り言ちた。
――その前に村長様の様子を見ていくか、まだいろいろ聞きたいこともあるしな。
忙しく口を動かしながら、これからのことを考える。最後の一口を食べ終わったリュウレイは立ち上がると返却口に空の器を運んだ。あとから来た親方たちはその余りの速さに呆れ顔でリュウレイを見送っていた。
それから食堂が落ち着くまでの間、姪のリュウキョウの相手を楽しんだ後、一息ついたリュウシュンからリュウフォンの昼食を受け取り、昼下がりの工房を後にした。
… … …
「は――、今日も腹一杯食ったな。私が早飯なのも、義姉さんの影響かな?」
一人のんきにそんなことを口走りながら、リュウレイは村の畦道を歩いていく。目指す村の広場に人影はまばらだった。
その時、遥か前方から向かい風が吹き抜けてきた。同時に広場の中心には強いつむじ風が生まれ、土埃が巻き上げられる。その中に見覚えのある人影が忽然と現れて、地に降り立った。
「あれは……ナルタセオ?」
風の収まった後に現れたのは褐色の肌を持つ緑初緑眼の女性、ナルタセオだ。すらりとした長身に露出が高く動きやすい短衣を纏い、その上には旅人が使う丈夫な外套を羽織っている。そして何より大陸各地を回り、行商人として活動する彼女はいかにも重そうな背負子を軽々と背負っている。
久々に訪れた村の風景を目を細めて眺めていた彼女にリュウレイは駆け寄る。
「おーいナルタセオ! 久しぶりだな!!」
「お前はリュウレイか……、相変わらず元気そうだな。皆に変わりはないか?」
「皆、元気すぎて困るくらいだよ!また村長様の薬を持ってきたのか?」
リュウレイが尋ねると、短く刈り揃えた前髪を揺らしナルタセオは頷く。
「ああ、本当ならも少し早くに訪れるつもりだったんだが、最近得意先が増えたんでな。どうしても後回しになってしまったんだ。村の人たちから頼まれた品もあるからな」
商人組合にも所属する彼女は、顧客から頼まれた品を取り寄せる仲買のようなこともしているらしい。おかげで暇はないなと、笑っていた。
「これから村長様のところに顔を出すつもりなんだ、一緒に行くかい? その後は森にいるフォンのところに昼飯を届けるつもりだけどさ」
フォン専用の昼食が入った包みを持ち上げて、リュウレイが問うとナルタセオは村長のところに行こうと答えた。
「ところで、エルは……リュウフォンは元気にしているのか?」
「ああ、うちのチビたちといつも仲良く遊んでいるよ。村のみんなともうまくやっているしな」
「そうか、それならばいいが……」
並んで歩くリュウレイが応えるとナルタセオはどこかほっとしたように見えた。風を操る力を持つ彼女はリュウフォンの同族。それもフォンの叔母であり、今は一族を束ねる長を務めている。山深い風に守られた地に住み着いた彼女たちの一族は力のある者たちが外の世界に出てそれぞれに活動している。
その中で唯一の例外はやはりリュウフォンだろう。彼女は王都からの縁でリュウ家の先々代、リュウゲンの養女となりリュウ家に引き取られた。それから六年余り。リュウレイとは血のつながらない姉妹としてともに苦楽を共にしている。
まあ、リュウレイとしてはそれ以上の関係だと自負しているのだが。
一族でも抜きんでた力と才能を持つリュウフォンは姫長である義姉の加護を受けてさらにその力を伸ばしていると以前ナルタセオから聞いたことがある。風を操る彼女たちの一族でもリュウフォンほどの力の持ち主は他にいないらしい。
「後で、リュウ家にも顔を出すつもりでいる。いい酒が手に入ったから、楽しみにしてくれ」
「そりゃいいな! 義姉さんも喜ぶよ、さすがはナルタセオ。話が分かるな!!」
リュウレイが喜ぶと、やれやれといった様子でナルタセオは首を振った。裏表がなく、人当たりのいいナルタセオは鍛冶師の村の人々からも人気があった。フォンによく似た整った容姿と体型もさることながら、大陸各地の情勢に詳しい彼女の話はいつ聞いても飽きることがないのだ。
一族の語り部でもある彼女は人を惹きつける話術に長けているのかもしれない。それがリュウレイの抱いた感想だった。
村長の家までやってくると、ちょうど昼食を運んできた村の女たちに出会った。この時間になると彼女たちは村長のところに集まるのが習慣になっていた。亭主の愚痴や子供たちのことなど女たちの話が尽きることはない。
それに根っからの話好きである村長は聞き上手でもある。それがこの村に彼がなくてはならない理由の一つであるようにリュウレイは思っていた。
深い山奥でしか取れない薬草から調合された薬をもって、ナルタセオが顔を見せると村長はうれしそうに笑い、彼女を歓迎した。
「おお、懐かしい顔が来たものだ! いつも世話をかけるな、ナルタセオ! 今度はどれくらいいられるのだ?」
「いいところ、三日ほど逗留させてもらうつもりでいる。この村で細工物を仕入れたいしな」
「よかろう、工房の者たちには話してある。リュウレイよ、あとで案内してやるがいい」
「うん、わかったよ。村長様!」
リュウレイが頷くと、村長は早速村の外での出来事をナルタセオに尋ねていた。こうなるとなかなか話は終わらない。先にリュウフォンのところに行くと告げでリュウレイはその場を後にする。
「さて、少し時間食ったけど、そろそろフォンのところに行くか」
風にそよぐ緑濃い森の稜線を目に宿し、リュウレイは歩き出した。




