Scene8 誘惑《ルアー》なんてさようなら その1
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かび臭い宿屋の一室。
疲れ切っていたユーリエルは、すでにベッドに沈んでいる。
アンナとティナは隣の部屋に泊まっているので、ここにはいない。
首からタオルを下げたまま半裸でシャワールームから出てきたノエルは――
自分のベッドの上に、砂山が築かれているのに気がついた。
ノエルはうんざりしながらも、砂山に声をかける。
「もう二度と会わないんじゃなかったのか? ミズカ。」
ノエルが問いかけると、砂山は風もないのにさらさらと崩れてゆき――
緑の衣服を身にまとった少女、砂蟲のミズカがあらわれた。
「そのつもりだったんだけど、事情が変わったの。」
「あ?」
ミズカはふわりと消えると、ノエルの胸もとに抱きかかえられるような姿勢であらわれた。
「わたしたちは、おにいちゃんたちを監視することにしたの。」
ミズカは小さな手を、ノエルの胸に這わせる。
「監視? なんでまた。」
「最恐のアンナと、人間ならざる者の組み合わせ。そりゃ気にもなるわよね。」
また姿を消すと、今度は枕元の壁から上半身だけ突き出す。
その壁はアンナとティナが泊まる隣室に接していた。
「そこに、ウリザネアウスの巫女でしょ? なにかありそうって思うわよね。」
「ずっとつけてたのか?」
ノエルには気配を感じられなかった。
「存在を希釈してたのよ。アンナにも感づかれないくらいにね。幼女に監視されるなんて、一部の大人にはヨダレものよ。」
「そんな性癖はねえ。」
「性癖ねぇ。食べたり寝たり、おにいちゃんたちってずいぶん人間くさいのねー。」
そういってミズカは、ユーリエルの上を浮遊する。
「地上には地上の法則があるからな。」
ノエルが毅然と言い放つと、ミズカはやや気怠そうに話を続けた。
「その法則からいうと、わたしたちは巫女と関係が深いの。あの子たちは獣苑の精霊と交感する精霊使いでしょ? 砂蟲は精霊に近いから、巫女の影響も受けやすいのよね。」
「じゃあ、ティナのことも知ってたのか?」
「ええ。巫女の村の消滅もね。」
「精霊は、どうして巫女たちを助けなかったんだ?」
「助ける? なんでそんなことしなくちゃならないの?」
ミズカは目をくりくりさせた。
「勘違いしないでよね。巫女は精霊の力を借りているの。精霊が人間に肩入れしてるわけじゃないわ。」
さも当然のようにミズカは言った。
人間と精霊、そこには大きな隔たりがあるようだった。
「それで、監視役がミズカというわけか。」
「ええ、そうよ。でもわたしもこっそり見守ろうと思ってたの――」
ミズカは砂に姿を変えると、今度はノエルのベッドでゴロゴロと寝返りを打つ。
「おにいちゃんたち、パン屋に入ったよね?」
「ああ。」
「結界を張るパン屋なんて、いったい何を捏ねてんのって話よねー。」
ミズカは拗ねたように顔を逸らすと、ノエルの枕に抱きついた。
「結界?」
「結界を破るのなんか、なんてことないけど、騒がれると面倒だからやらなかっただけ。――おにいちゃんたちはあそこで何してたの?」
そういってミズカは、上目遣いにノエルを覗き込んだ。
「ああ、教えてやってもいいが――」
ノエルがベッドに腰を下ろす。
まるでベッドへと誘い込まれたような態となったノエルに、
「やっぱりおにいちゃんって、少女偏愛だったのねっ!」
ぽっと顔を赤らめるミズカ。
しかしノエルは無視して話を続ける。
「アンナが妙なものを持ってるのに、気付いていたか?」
「あの四角い匣ね。」
「あれはいったい何だと思う?」
「さあ、しらない。」
「そうか――ミズカにもわからないよな……。パン屋ではあれの正体を探っていたんだ。けど何もわからなかった――なあミズカ、この世界には、『神の遺物』ですらない妙なものってのがどれだけあるん――なにやってんだ!?」
ノエルが振り返ると、ミズカは緑の衣服を脱ぎ、あらわな下着姿になっていた。
「準備OKよ、おにいちゃん。あ、年齢のことなら気にしないでね、合法ロリってやつだから。見た目がすべてよ勇気を出してっ!」
「服を着ろっ!」
「おにいちゃんが裸なのに、わたしだけ服を着てるってのも変でしょ? でも全裸よりそそると思って、下着だけ残したわたしのやさしさ! どう?」
「どう? じゃねえ。ユーリが起きる前に早く着ろ!」
「大丈夫よ、ゆっくり眠ってもらってるから。」
ユーリエルはピクリとも動いていなかった。
どうやらユーリエルのまわりだけ、時間の流れを遅くしているようである。
「さあおにいちゃん、めくるめく逢瀬を楽しみましょう? わたし、造形には自信があるからっ。」
ミズカは下腹部のあたりをさすってみせた。
「話を聞けっ!」
とノエルが叫ぶ――
ドン!
枕もとの壁に、ひびが入った。
ノエルとミズカがびくっとして振り向くと、
『あちゃー、やりすぎたー。ごめんねーノエル。』
壁の向こうから、アンナの声が聞こてきた。
『軽い壁ドンのつもりだったんだけど……この建物、もろいみたいー。』
「お、おう……」
怪力を棚に上げて、建物のせいにしたことは置いておいて――
まるで浮気現場を押さえられたような動悸に襲われ、ノエルとミズカは固まった。




