第8話 イヌワシのように
「閣下、聖女様を貴族学校に通わせるのは、愚策でありますぞ。なにとぞ、お考えを改めてください」
豪華絢爛な宮殿の王の間に、モドローネ宰相の声が低く響いた。国家の懐刀とも称される重鎮が、フランチェスキ王の玉座の前にひれ伏し、額を床に押しつけながら口上を述べていた。
「聖女様のわが国家への貢献は多大なれども、貴族学校など他国の留学生の目もある場所に通わせるのは、危険でござります」
「それほど危険なのか?」
「今は王宮にて隔離しておりますが、それでも各国の間者に察知されておるのは、公然の秘密でござります。貴族学校など安全管理の行き届かない所では身を守るすべはござりません」
「各国に知られたか……聖女様の身を守るのは、我々下僕の役割じゃな」
モドローネは表情ひとつ変えなかったが、内心では激しく動揺していた。
王が聖女様の下僕だと。十七歳の小娘にたぶらかされたか。
いや、聖女は処女でなければ神託を女神から受け取れないとも聞く。王であっても手出しはできないのだろう。それにしても、小娘ごときの言葉に信頼をおいて、自分の直言には耳を貸さなくなったのは痛手だった。
国の重要案件を小娘ごときが決定するのは許してはならない。何としても聖女様を排除して、権勢を取り戻さなければ。
「どうでしょうか? 暗躍する間者から聖女様を守るために、しばらく辺境の城にご滞在してもらいましょう」
「しかし貴族学校の件は……」
「それは安全の見込みがついてからということで押し通すのです。それが聖女様を守る守護者であられるフランチェスキ王の御自愛かと」
「うむ、わしは自らの子供たちより聖女様が愛おしい。おっと、これは機密情報じゃぞ」
慌てて王は唇に人差し指を立てた。
◇
辺境の古城は、廃墟と見紛うばかりの外観だった。カラスの鳴き声が不気味に谺し、城を取り囲む深い森は昼なお暗い。
城の背後には絶壁の渓谷が口を開け、風が吹くたびに底から冷えた空気が這い上がってくる。
ルーナがこの城に移ってから、ひと月が過ぎた。
カーテンも調度品もない牢屋のような部屋で、ルーナは毎日を過ごしていた。護衛の騎士もなく、仕えるのは陰気な侍女と執事だけだ。
「聖女様、お食事でござります」
侍女テクラがいつものように黒パンと豆スープを盆に載せて運んできた。
ルーナはそれをおいしそうに口へ運んだ。テクラは目尻に滲みそうになった涙を、そっと指で拭った。
鉄仮面のような無表情を保つリーヴァ執事も、食事のたびに視線をわずかに伏せた。
だがルーナの内心は、周囲が想像するものとは少々異なっていた。
――今日も黒パンに豆スープか……ほんとはもっとバラエティな食べ物が欲しいけどしかたないわね。宮殿にいた頃は、好きなもの何でも食べ放題だった。そのせいでちょっと太ったのよね。年頃だから気になってしかたなかった。このダイエット食のおかげで体重も減ったみたい。むくみが取れてお腹周りもスッキリした。嬉しいわ。慣れって恐ろしいわね。簡易な部屋も贅沢な生活の戒めよね。聖女たるもの質素な生活が健全なのだわ。モドローネ宰相に感謝ね。
食後、ルーナは塔の屋上へ上がるのを日課にしていた。眼下には雄大な自然が広がり、見渡す限りの広大な森が緑の絨毯のように続いている。ただ、カラスの鳴き声だけはどうしても馴染めなかった。
ところがある日、屋上に足を踏み出すと、あの不気味な声がしない。見回してもカラスの姿がない。
ふと空を仰いだとき、ルーナは息を呑んだ。
大きな翼を広げた鳥が、悠然と旋回していた。
イヌワシだ。
翼を目にした瞬間、その大きさに体がすくんだ。
だが、大空を音もなく滑空するその雄大な姿をじっと見ているうちに、胸の奥で何かがはじけた。
「そうだ。私は自由に空を飛びたいんだ」
ルーナは物心ついた頃から王宮に住んでいた。遊び相手は王族の子供たちで、みんなルーナに優しかった。それが当たり前の日常だった。
違和感を覚えたのは、同世代の王族の子弟たちが各国の貴族学校へ次々と留学するようになってからだ。彼らから届く手紙を、ルーナは食い入るように読んだ。新しい町での暮らし、学校で芽生えた友情、初めて出会う人々との日々が、生き生きとした文字で綴られていた。
王族の子弟としか付き合いのなかったルーナには、どれも眩しく新鮮だった。王族は自由でいいな、とひそかに羨んだ。
貴族学校への入学を、ルーナは王に懇願した。しかし王は宰相の諫言を受け入れ、ルーナをこの辺境の城へ閉じ込めた。
私は王族の、王家の、国家の"籠の鳥"ではないか。
その問いが、じわじわと胸に広がっていた。籠の目を破って外へ出たい衝動が、日を追うごとに強くなっていた。
あのイヌワシのように、雄大な空を自由に飛んでみたい。
そのとき、イヌワシが急降下して塔の縁に降り立った。二つの鋭い目がルーナを真っすぐに見据えていた。問い詰めるような視線だった。
ルーナはこっくりと頷いた。
「イヌワシさん、私も羽ばたくわ」
イヌワシは翼を広げ、風を掴んで飛んでいった。
その夜、ルーナはベッドの脇にひざまずき、指を絡ませて祈った。黄金色のきらめきとともに女神が降臨した。
「女神様、私に羽ばたく翼をください」
女神の眼差しは、慈愛に満ちていた。
◇
それから数ヶ月が過ぎた頃、離れた村から農民たちが荷車を連ねてやって来た。荷台には畑で採れた作物と牛肉、鶏肉が山と積まれていた。
城の管理を担うリーヴァ執事のもとへ、農民の代表が進み出た。
「これまで天候不順で農業が不作でした。このままでは壊滅してこの地を出奔しなければならないと考えていました。しかし、聖女様がこの地にお越しになってから奇跡的に天候もよくなって、豊作になりました。これは聖女様のお加護のおかげです。ぜひ、受け取ってくだされ」
リーヴァは一瞬だけ瞼を伏せてから、快く受け取った。
聖女様はみるみる痩せている。モドローネ宰相から「囚人と同じものを食わせろ」と厳命されたから従ってきた。この城がかつて刑務所だったことは、王に偽っている。自分は執事という仮面をかぶった宰相の間者だ。
だが、あの天真爛漫な聖女様の傍にいるだけで、胸の奥に溜まっていた澱が少しずつ晴れていく気がした。モドローネ宰相を裏切ることになる。それでも、自分は聖女様の盾になろう、とリーヴァは静かに決めていた。
騒ぎを聞きつけてルーナが出てくると、農民たちは一様に動きを止めた。
「おおー、あの方は……聖女様でありますな。何たる美しさ、輝き、本物の聖女様だ!」
農民たちがその場にひれ伏した。
その夜の夕食は豪華だった。肉料理に新鮮な野菜、香りのよいスープ。テクラが少し誇らしげに料理を並べていく。
だがルーナは、食卓を前にして眉をひそめた。
――せっかくダイエットできたのに、こんな美味しもの食べたらすぐに太るわ。勘弁してよ!
◇
その頃、国境では紛争が起きていた。フランチェスカ王国と隣国ガルドヴァ帝国との小競り合いが戦闘に発展し、駆けつけたモドローネ宰相の長男、国境守備隊隊長が弓を喉に受けて落馬した。即死だった。
捕虜になった次男の副長は、程なく斬首された。
二人の息子の訃報を受けたモドローネは顔面蒼白になりながら王にガルドヴァ帝国討伐を宣言したが、即座に却下された。和平の使者を送れと命じられ、奥歯を噛み締めるしかなかった。
その後も不幸は連鎖した。妻が暴漢に襲われて死去した。相手は妻の浮気相手の騎士だった。唯一の慰めだった娘の婚約も、「呪われた一族の娘はもらえない」と破棄された。
モドローネは酒を浴びるように呷った。なぜだ。なぜこうも坂を転げ落ちるように不幸が重なる。理由が分からない。
盃を置いた手が止まった。
「もしや、聖女様を貶めた天罰か。わしはルーナ聖女様をひどい目に遭わせてしまった。これに違いない!」
翌日、モドローネは辺境の城へ向かった。ルーナの前に出るなりその場で土下座をし、額を床に擦りつけた。
「聖女様、これまでの数々の非礼お許しください。このモドローネ、性根を入れ替え聖女様の為にこの命捧げる所存でございます。どうか、わが身を思う存分お使いください」
完全な降伏だった。このまま続けば、一族すべてに不幸が及ぶのは明らかだ。それを止める方法はひとつしかない。聖女様にわが人生を捧げることだ。モドローネの目には、その決意があった。
「だったらお願いしてもいいかしら?」
「何なりと」
「夕食は黒パンと具なしスープでお願いします」
「はあ?」
「もう、これ以上太るのは嫌なのよ」
ルーナは屈託なく笑った。その笑顔を目の当たりにして、モドローネの背筋に冷たいものが走った。
◇
放課後の通りを、ルーナとオザンナは肩を並べて歩いていた。たわいないお喋りをしながら歩くうちに、オザンナがふと空を仰いだ。西の空が茜色に染まっていた。
「うわっ、でっかい鳥がいるぞ。何だあれは?」
「イヌワシよ」
「イヌワシ? よく知ってるね」
ルーナはクスッと笑った。
「私のこの場所に連れて来た恩人なのよ」
「何それ?」
「教えない」
「えー、教えてよ」
二人の声が重なって、夕暮れの町中へ消えていった。




