Monstruo
音もなく迫る影の亡者を、悪魔はただ見つめていた。
退くでもなく、迎え撃つのでもない。
――ただ、憐れみの目で。
「外道。これは言い間違えではなく。残念です」
愁いを帯びた少女の言葉は、悪魔らしからぬものだ。
自らの目的のために、人の道を外れた聖人。
むしろ悪魔なら、歓喜して迎えるべきだろうに。
いや、実際、少女は歓喜していた。
浮かべた表情は、符穏の狂気を讃え、悦んでいる歪な笑顔だ。
声《内面》と顔《外面》が、異様なほど乖離している。
「やはり人間は愚かですね。それが愛おしくもあるのですが――貴方のそれは、私の口に合わない」
符穏は疾る。
上体を深く前に倒した、低い姿勢は影のように。
二人の距離は、大剣を振りぬいてもまだ足りない。
符穏の黒双剣が届くまで、踏み込みがあと二歩は必要だろう。
すぐに詰められるが、一呼吸程度の間が空いている。
その絶妙な距離で、符穏の右手が振るわれた。
なんの意味もない斬撃。
誘いどころか、煽りにもならない一振りだ。
右下から、逆袈裟に振るわれた黒剣が、虚空を裂く音。
だが、俺の耳はその違和感を訴えていた。
剣の音に混じる、シュッ!と、短く鋭利な、空気の断裂音。
「――っ、芸が細かい人ですね!」
少女が身を捻り、投擲された棒手裏剣を避ける。
その残像を追いかけるように、切り裂かれた長い茶髪が、ハラリと宙に舞った。
――暗器だ。
初速が乗り、最も威力と速度を発揮する距離での奇襲。
袖口に仕込まれた、正当な武人であれば忌避する凶器。
それはまさに、どんな手を使ってでも悪魔を殺すという、符穏の執念を感じさせた。
初撃の合間は、わずか一呼吸。
――つまり、双剣が届く距離まで踏み込めている。
「――シッ!」
肉薄した符穏の鋭い呼吸音。
次いで上げていた右手が振り下ろされる。
力強く踏み込み、今度は袈裟に。
少女の肩口から切断する一閃。
しかし、少女はその斬撃を見ていないだろう。振り上げていた姿勢からの、単純な軌道。読むのはたやすく、故に本命にはなりえない。だが――それが分かっていても、これは詰みだ。
(面倒な相手だな。奇抜な動きに、意地が悪い仕掛けもある)
少女の左肩から袈裟切り。
当然、刃の流れる方向へ避けるわけにはいかない。
けれど逆側や後方に引けば、それも終わりだ。
振り下ろす動きに合わせて、符穏の身体は捻られる。
その回転は同時に、左の黒剣の射出台だ。
避けた少女に向けて、流れるように刺突を繰り出すだろう。
跳んで距離をとっても、暗器が飛んでくる。
厭らしい攻め方だ。
武器があれば上手くいなすなり、方法もあるが……。
それを持たない以上、致命的に追い詰められたと言っていい。
超常の力ではなく、研鑽と狂気が生んだ必殺の手管だった。
「…………!」
自身が置かれた絶望的な状況。
それに気付いたのか、少女の目が大きく見開かれた。
肩口に迫る黒刃。
少女は左足を下げ、流れる剣の逆側へと身体を逃がす。
(……終わりだな。それは悪手だ)
「――愚かな」
空を切る右の黒剣が流れた。
同時に左の刺突が、避けた少女を貫く。
予想通りの連撃。
符穏の執念が、ついに悪魔を打倒する。
俺も、おそらくは符穏も、そう考えていた。
けれど、少女は違う。
流れるような連撃の、一回の瞬きにも満たない隙間。
悪魔の目は、その空白を見ていた。
躱した少女の身体は半身に。
一歩前に出した右足は、地面を踏みしめている。
それは――固定された砲台だった。
少女の右足が踵を浮かして捻られ、ジャッ!と、こすれた音を立てる。そのわずかな動きは足から腰へ伝わり、大きな力となって、左足を撃ち出した。
放たれたのは電光石火の蹴りだ。
符穏の刺突よりも速く。
風が唸るほどの加速をもって、符穏の胴を穿つ。
「がはっ――!?」
ドッ!と重々しく鈍い音が耳に届き、符穏の身体が『くの字』に折れた。そのまま大人一人分ほどの距離まで吹き飛ばされる。それはもはや、蹴りというより鉄槌のような一撃だ。骨を砕いた、あるいは内臓まで破壊されたかもしれない。
符穏の仕組んだ、致命的だったはずの絡繰り。
それを少女は、なんの異能も使わず、真っ向から打ち破ってみせた。
(速い……俺にあれが避けられるか?)
符穏の組んだ流れに、隙間があったようには見えない。
だからそれはそのまま、俺と少女の差ということになる。
やはり、予感は正しかった。
この少女とやり合ってはいけない。
「これが幻想種……本物の化け物か」
比喩や精神的な話ではない、生物としての怪物。
その違いを見せつけられた気分だ。
少女を観察していると、バチバチ、と空から音が聞こえた。
見上げれば、符穏の張った結界が薄れて消えていく。
神父が死んだのか、意識を失ったのだろう。
そして……俺はようやく、一つの重大な失敗に気付く。
「愚民……赤髪の人。どこにも行かずに待っていたのは、いい判断です。私からの好感度が上がりました」
聞こえた声に目をやれば、少女がこちらに向き直っていた。
出会った時と同じ無表情、前掛けの前で行儀よく手を合わせて。
なにも嬉しくない数値だった。
出来れば今すぐゼロまで落としたい。
「メリムのことが知りたいんだろ。いまさらだが、俺はなにも知らないぞ」
「構いません。どこで会い、誰といたか。それが分かれば順番に追って」
ザクッ、と硬いものを貫いた音と一緒に、少女が首を左に傾げた。見れば右の側頭部に、棒手裏剣が刺さっている。
「根暗……神父様。殺してしまうと問題になるので、手加減しましたが。次は死にますよ?」
少女は振り返りもせず、右手で凶器を引き抜いた。
そしてそのまま地面へ放り投げる。
少女の身体越しに見える符穏は、片膝をついて腹を押さえていた。どうやら生きていたらしい。とはいえ、それでも瀕死ではあるだろう。全身がガクガクと震えているのが、離れていてもわかる。動いているのが異常なくらいだ。
「私は――貴様らを、必ず」
符穏が立ち上がる。結界も消え、黒剣を取り落とし、何も出来ないことは明らかだった。けれど、折れるわけにはいかない何かが、死にかけの身体を突き動かしている。
口からおびただしくこぼれる血は、内臓を破壊された証明だ。俺でさえ、こいつら悪魔とやり合おうとは思わない。だというのに、なにが符穏をそこまで駆り立てるのか。
少女がゆっくりと振り返る。符穏を見つめる横顔は、表情の無い冷たくも思える様子だ。口元も、微動だにしない。だが、細められた目には、符穏を見定めるような威圧感があった。
「――人の身で、よく頑張ったとは思いますよ」
少女の言葉に、符穏は血走った目を向ける。
神父であるはずの男が、呪詛を吐きかけるように。
悪魔の魂を穿つような眼光。
しかし、その光はすぐに消え、符穏はドサリと倒れ込んだ。
それが終わりの合図だった。
静寂の中、少女が改めてこちらに向き直る。
俺を見据える、まっすぐな視線。
踏み出した少女の歩みは遅い。
だが、一歩ずつ確実に距離を詰められていく。
――俺は、なぜこの場を離れなかったのだろう。
機会はあった。実際それを考えたはずだ。
選択を、間違え続けている自覚がある。
酒場の時も、警ら隊が去った時点で、帰るべきだった。
『あまり視線を向けないで。関わるのは面倒』
ふいに、露店でイヴが言った言葉を思い出す。
(そうだ……あの時からすでに、俺はおかしかった)
イヴの言うとおり、いつもなら目を向けることなど、なかったはずなのに。俺は――知らぬ間に、『外』の人間に興味を抱いていたのか。
トマスやエミィは、弱くとも誰も殺さない。バロンは他人である俺を助けた。刻雅からも、近づいてきたことに、打算や敵意を感じない。
外の人間はみな、あの島の人間とは、別の生き物にさえ感じる。いや……これが『普通』の人間なんだ。
俺の見てきたものが異常で、何もかもが間違っていた。
『らしくないのはアンタでしょ。まさか、勘違いでもしてるわけ?』
違う。
『自分が『普通』になれるんじゃないかって』
そんなことを考えているわけじゃない。
ただ、俺は――。
「おい、誰か倒れてるぞ」
深く入り込んでいた思考は、誰かの声に遮られた。
バラついた足音と共に、周囲に複数の気配を感じる。
「魔法か? あの娘、貴族仕えじゃ」
「上層の人間が、なんで下層に?」
「角と翼が生えてる……ありゃなんだ?」
目をやれば、遠巻きに囲むように、人だかりが出来ている。あれほど大規模な魔法を、町中で使えば当然の結果だった。
「むぅ。これは良くありません。目立っては叱られてしまいます」
少女は困ったように言いながら、わずかに眉をひそめる。
けれど、その変化は些細なもので、言うほど困っているようには見えなかった。もとから感情表現が薄いのかもしれない。
「あれ? シヴィラじゃない」
ざわめく野次馬の中から、聞き覚えのある声がした。
少女と同時に視線を向ける。
「……シヴィル」
そこに、目の前の少女と同じ、瓜二つの悪魔が立っていた。




