18 お前の中の狂気を目覚めさせるんだ
村上和史は私に語り出した。
「あいつがホテルで俺と密会する時は、いつもコスプレをしてその役になりきって俺に抱かれる。あいつは俺が中学生の時に好きだったアニメのヒロイン役をやっていた。その話をしたら、あいつは俺に目隠しをして、俺の上にまたがり、そのヒロイン役の声でセックスをした」
村上はその時のことを思い出しているのか、目を細めて口元を緩めた。
「最高のセックスだった。そして俺よりもあいつの方が楽しんでいた。あいつも狂っている。いや、あいつは狂気そのものだ。だから50歳手前でもこの業界の最前線に立っていられる」
お前はどうだという風に村上に見られた。
「私には無理です。そんな狂気は私の中にはありません」
「なら、辞めるか」
「それは……」
「辞めたくないのか」
私は頷いた。
「アイドルになるのはずっと夢でした。今やっと、Vチューバーとして人気が出てきたところです。辞め
たくありません」
「俺はお前の中に狂気が無いとは言っていない。今のお前が普通だと言っているんだ」
「何を言いたいんですか」
「お前も自分の中の狂気を目覚めさせてみる気はないか」
「どうやってです?」
「俺が手伝う」
「……」
「中村裕子の狂気と色気を引き出したのはこの俺だ。今では息子より若いファンがガチ恋勢になっている。亜紀、お前も俺についてくれば、もう1段上のところに連れて行ってやるぞ」
「中村さんはどうなるんですか」
「あいつは今が限界だ。もうこれ以上は伸びない。果実は完熟して腐りかける手前が1番甘いというが、あいつはもう腐っている。本人もそのことを自覚しているはずだ。だから散る前に色狂いしている。お前が本気なら、俺は中村に引導を渡して引退させてもいい」
「そんなことできるんですか」
「ああ、俺がいなければ、会社は回らない。社長も俺の言うことはきく。その代わり、分かっているだろう」
村上は独身だ。村上と関係を持ったところで不倫でも何でもない。村上の申し出を受けることにより今の仕事を失わず、さらに芸に磨きがかかるというのだろうか。それにIPOが成功すれば村上は億万長者で上場企業のオーナーの一員だ。結婚すれば億万長者の妻になれる。
今、Vチューバーを辞めさせられたら、後がなかった。年齢も20代後半にさしかかるところだ。これからアイドルとして新規に売り出してくれる事務所などない。
「どうした。黙りこくって」
「要は、会社に残りたければ、村上さんの女になれということですね」
「そんな風に言うと身も蓋もないな。俺はただ、お前に足りないものを引き出してやると言っているだけだ」
「考えさせて下さい」
「まあいい。すぐに決められないというのなら少しだけ時間をやろう」
私は迷った。
視線を落とした。
村上の手が見えた。
爪と指先が汚かった。漫画家で絵師の村上は、今でもパソコンではなく、ペンや筆で絵を描くことがあると言っていた。そのせいか、爪の間には黒のインクや絵の具のようなものが残っていた。
目を上げた。
村上は着るものには金をかけていた。十万円もする革ジャンを着て、オークションで買ったというビンテージもののジーンズを自慢気に履いていた。
だが、シャツは安物でしかも襟首が薄汚れていた。
私は村上の汚れた指先が自分の身体を毛虫のように這うさまを想像して背筋がゾッとした。
爪が汚くシャツが不潔な男性は私には無理だった。
村上がファミレスの伝票を掴んだ。
レジに行く村上の後を黙ってついて行った。
会計の際に、村上はドリンクバーが安くなるクーポンが使えないと言われて、店員に悪態をついた。
さっきまでIPOがどうこうと言って数十億単位の話をしていたのに、たかだか数十円の割引のことで頭に血が上ってしまっているようだった。
こういうのは、お金の問題じゃなくて生理的に嫌悪して引いてしまう。
やっと会計を済ませ領収書を財布にしまうと村上はこちらを見た。
「ここの勘定は俺のおごりだ」
「ありがとうございました」
私は頭を下げた。
「うむ」
村上は満足そうな顔をした。
「お前はもう若くない。俺の申し出をよく考えた方がいいぞ」
そう言い残すと村上は駅の方に歩いて行った。
自宅は逆方向だった。
重い足取りで家に向かった。
途中ふと気になり、スマホでメッセージをチェックした。
すると、SNSにメッセージが1件入っていた。
気になり開いてみた。
「大丈夫。心配しないで。僕が君のことを今度も守るから」
(何? 誰なの)
送信者のアカウントは初めて見るものだった。
(どういうこと? まさか、今の村上との話を聞いていたの?)
私は立ち止まって、周囲を見回した。
通行人が数人いるだけで、知り合いも、怪しい風貌の人もいない。
薄気味悪くなり私はスマホの電源を落とし、小走りに家に急いだ。
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