其の弐:彼が彼女に土下座したとき
ヒュンッ、ヒュンッと風を切る音が響く。
それはこの町で一番大きな屋敷の広大な日本庭園から。さらに言えば、そのなかに併設された石庭で素振りをしている少年の刀――当然模擬刀だ――からだ。昨夜の天然パーマの少年と同一人物である彼の名は篠崎勇刀という。
彼の目線に切っ先が一瞬静止するたびに件の音が鳴り、細かい汗が散る。たまに「くそっ」、「このっ」などという言葉が漏れるのは、この素振りが昨夜の戦闘での苛立ちを発散させるためのものであるからだ。
千本近く振ったところで、勇刀はそろそろやめてもいいかと考える。一番の目的であるストレス発散は十分できたのだ。だが、その一方でまだ終わらせるべきではないとも思った。
もっとまっすぐな素振りを。もっとキレのある素振りを。そう思ってしまって、やめるに止められなくなっていた。彼のストイックで凝り性な性格が働いたのだ。
「ふんっ……お?」
結局「もう一本だけ」と振ったところで、勇刀は困惑から動きを止めた。目の前に突然、灰色の猿が現れたのだ。
なぜこんなところに猿がいるのだろうか。なぜ敵意むき出しでこっちを睨んでいるのだろうか。それ以前になぜか既視感のある猿だ。
「ウッキイイッ」
「っでえええっ!」
などと考えていたら思いっきり引っかかれた。激痛のあまり勇刀は地面をのた打ち回る。端から見れば滑稽な光景かもしれないが、痛いものは痛いのだ。
「なにしてんの。馬鹿みたい」
「うるさいな、優梨」
そんなこちらの意思など知ったことかと、上から容赦ない言葉が降ってくる。痛みに顔を押さえながら起き上がると、予想通り塀の上からポニーテールの少女――綾瀬優梨――が馬鹿にするかのように見下ろしていた。彼女も昨夜戦闘をしていたあの少女だ。
馬鹿にされるのは乳幼児からの付き合いから慣れっこだが、言わないときが済まないこともある。特に今回は。
「あの猿はお前の式神だろ」
「その通りよ」
「何のつもりだ?」
「そろそろ八時になるからあんたを呼びに来たの。そうしたら、真剣に素振りしていたから…………なんか腹立って、灰猿(モン吉)を呼び出したのよ」
「お前の思考ロジックを疑うよ」
これ以上話しても納得などできないような気がしてきたので、ここで話を打ち切ることにした。それに、彼女の話のなかでそれ以上に気にかかることがあった。
二人の通う中学校は八時十五分までに教室に入らないと遅刻認定される。この屋敷から学校までは歩いてちょうど十五分くらい。素振りをしていたので、勇刀の服装は当然制服ではなく、道着袴姿だ。着替え時間を考えればかなり厳しい。
「失礼ですが、今何時でしたっけ?」
「人の話もちゃんと聞けない馬鹿だったとはね。八時って言ったでしょ」
天は彼を見放した。
「急いで着替えてくるから待ってろ」
「嫌よ、私も遅刻する」
慌てていった頼みをあっさり正論で断られた。だが、このまま引くわけにはいかない。このまま一人で遅刻するのは嫌だ。というか、一人で説教を受けるのは嫌だ。だが、その説教も優梨なら上手く切り返せるはずだ。
踏み出した右足を軸足に反転。そのまま両膝を地面につけて重心を前にずらす。両手と頭を地面につければ完成だ。
「そこを何とかお願いします」
「普通土下座までする?」
プライドなど彼女の前ではとうに捨てている。そして、誠意を見せれば彼女も分かってくれることも、十年来の付き合いから分かっている。パシャッとシャッター音らしき音が聞こえた気がしたが、気のせいだと思うことにした。
「分かったから、顔上げな」
「恩に着るよ」
「はいはい、四十秒で支度しな」
「無茶言うな」
やはり分かってくれた。散々馬鹿にしてくるが、ちゃんと理解力のある人間なのだ。それを再確認し、勇刀は優梨と軽口を言い合いながら屋敷にとび込んだ。
それを確認した優梨が視線を落とすと、その先にあった携帯端末の画面には、七時三十分と言う値がアラビア数字で表示されていた。
「あっ! 綾瀬のところの小娘!」
「本当だ、何しにきやがった」
携帯端末を通学カバンにしまって見下ろすと、篠崎家が抱える門下生が十人近く集まってがやがやと騒いでいた。彼らの言動や視線から、優梨のことをよく思っていないのは明白だ。
「別にあんたらに何もする気はないわ」
だが、それは彼女も十年以上前から承知済み。態度を変えることなく彼らを憮然と見下ろす。
「黙れ、アバズレが。貴様がここにいる権利などない!」
その姿勢がさらに気に食わなかったのか、集まった門下生が一斉に懐から御札――いずれも優梨達が昨夜使っていたものと似たようなもの――を取り出して構える。本来は対人用ではないが、彼らにとってはそんなことはどうでも良い些事だった。
「今日こそ、その腐りきった根性をへし折ってくれるわ。いでよ、我が式神」
先頭にいた一人の門下生が勢いのままに右手を振り下ろす。――先程まで持っていた御札はすでにその手にはなかったが。
「……なっ!?」
「ノ・ロ・マ」
遅れて気づいた門下生を、優梨は意地の悪い笑みを浮かべて見下ろす。キッと反射的に睨みつけると、彼女の周りに煙のようなものが渦巻き、その煙の中で先程まで自分が持っていた御札が取り込まれるように浮いていた。さらによく見れば、煙に取り込まれた御札はその一枚だけでなく、この場にいる門下生全員が取り出した御札すべてが取り込まれていた。
「どうするの。まだやる?」
煙の性質を変化させて取り込んだ御札すべてを庭に落とし、優梨はやる気なさそうに言い放つ。この煙は昨夜の煙の狼、「狼煙」。つまり、この煙は主である彼女の思い通りに変質させられるのだ。
「くっ……」
実力差は一目瞭然。だが、プライドからか門下生は沈黙することしかできない。意地でも敗北を認めたくはなかったのだ。
「まあいいわ。じゃ、勇刀に早く来るように言っておいてね」
そんな心境を知ってか知らずか、沈黙は肯定とみなして優梨は塀から後ろの道路へと飛び降りた。煙も彼女にひっつくようにこの場から消える。
「なんなんだ、あいつは……」
本音を漏らした門下生の一人は無意識に拳を強く握りしめていた。
「さて……とりあえずいいネタは手に入った」
塀一つ挟んだ向こうで、優梨は少々不気味な笑みを浮かべていた。
屋敷に飛び込んだ後の庭での展開を知らない勇刀は必死に走っていた。部屋を二つ通りぬけてその先の廊下にとび出し、減速することなく駆け抜ける。角を何度か曲がるたびに、この無駄に広い屋敷が嫌になるが結局は自分が必死に走ることしかできない。
一気に加速して五度目の角を曲がったところで、坊主頭の大きな人影にぶつかった。
「ん? 勇刀、何してるんだ」
「ってて……あ、友哉兄さん、おはようございます」
見上げれば、三歳上の兄である篠崎友哉が見下ろしていた。純粋に疑問符を浮かべる彼に、勇刀は苦笑いを浮かべて挨拶をするしかなかった。
その際敬語になっていたのは、仕事での実力主義というこの家系の性質もあったが、勇刀自身が友哉を苦手としていることもあった。
友哉は仕事でつねに成果を残し、同業者からの信頼も厚かった。次期当主としての座も確定している。
だが、勇刀は至って平々凡々。どちらかというと、力配分のミスや詰めの甘さなどによる失敗の方が多かった。
だから何となく引け目を感じていたのだ。
さて、ここでいう仕事だが、その一例として、昨夜の勇刀と優梨の戦闘が挙げられる。
蝿もどきや球体の化け物は「魑魅」や「魍魎」と呼ばれる、怨念に囚われた魂が羽虫や木の葉を媒介に顕現した存在だ。
それらを含む、死した魂が現実の物質を媒介に生者に干渉する存在――「鬼」を式神などを使って討伐すること。それが篠崎家や綾瀬優梨などの「祓い人」の仕事である。
「また、優梨ちゃんに負けたのか」
「言いかえす言葉もありません」
「祓い人」は祓った「鬼」の霊力を吸収する性質を持つ。その霊力は「祓い人」自身のそれとは性質が違うので、その増分を見れば「祓い人」の活躍具合も分かる。
友哉は専用の道具を使わなくても、簡単に見るだけでかなり正確にそれを測ることができるのだ。その精密さは、高校生にして、「祓い人」の協会で幹部を務める、彼の立場に相応しいほどである。
「お前たちそこで何しているんだ?」
ようやく勇刀が立ち上がったところでまた別の低い声が響く。兄弟揃って振り向けば、左目に縦の傷が入った男性が立っていた。
鷲のように鋭い目つき。完全に静止した堂々とした立ち姿。そして、それらがかもし出す雰囲気はまさに歴戦の猛者と言うに相応しいものだ。
「お父様、おはようございます」
「おお、おはようございます」
彼が友哉と勇刀の父親で篠崎家現当主である篠崎佐紋だ。
実の父親に敬語を使い、若干時代錯誤的な口調になるのは、前述の篠崎家の特徴によるもの。だが、勇刀が慌てて若干噛みかけたのは単純に実の父親に怖気づいたからである。
「実はまた勇刀が優梨ちゃんに負けちゃったんですよ」
「なんですとっ!」
「うおっ……ちょっと近いですよ」
素直に友哉が説明すると、佐紋ではなくその後ろから飛び出した背の低い中年男性が叫んだ。彼は銀のフレームの眼鏡を指で押さえながら、勇刀にものすごい勢いで詰め寄る。
「また、あの綾瀬の小娘に負けたのですかっ。情けない」
「いや、邦保さん。負けるとかそういうことじゃ」
「何腑抜けたことを言っているんですか! いいですか。向上心をなくした者はただの屑です。恥を知りなさいっ!」
「……すいません」
この男性は篠崎邦保。篠崎の分家出身で現在は佐紋の補佐を務めている。
彼は「祓い人」の名家である篠崎の家に非常に誇りを持っていた。だから、許せなかった。毎度毎度、同業者に負けて結果を残せない勇刀が。そしてそれが普通と認識し始めている彼の心が。
それも、よりによってその同業者が綾瀬の小娘こと、綾瀬優梨ならばなおさらだ。
篠崎家と綾瀬家は「祓い人」は昔、有力な「祓い人」を輩出する名家として、その道の者によく知られていた。表面上は毛嫌いしながらも、互いに切磋琢磨しながら実力を高めていたよきライバル関係だった。
だが、綾瀬家のその歴史の中である重大な事件が起き、一族の有力な「祓い人」が全滅してしまう。それからめぼしい実力者が現れることもなかったため、一族は没落の一途をたどり、辛うじて協会に登録されていると言ったところだった。
「まあまあ、落ち着いてください。実際、彼女の力は半端じゃないんですから」
これ以上ヒートアップされると何を言われるかわからないので友哉が慌てて諌める。だが、言っている言葉はでまかせではない。
綾瀬家に有力な「祓い人」がいなかったのは数年前までの話。ほとんどいなかった綾瀬家から、とんでもない実力を持った「祓い人」が現れたのだ。
高性能の式神を複数生み出し、それを効果的に使って凄まじい速さで「鬼」を狩る。同業者のなかでは「没家の神童」と呼ばれる少女こそ、あの綾瀬優梨なのだ。
「って、時間ないんだった! 説教は後で聞くので、失礼しますっ!」
「ちょっ……なんなんだ?」
もともとは早く着替えるために慌てて家に飛び込んだのだ。八時からこれで何分経ったのだろうか。確実にいえるのは、これ以上無駄な時間は消費できないと言うこと。
ほかの人の動揺など考える余裕もなく、勇刀は一気に自分の部屋へと一気に走り始めた。
「ん……邦保。今、何時だ?」
「は。七時三十五分ですが」
佐紋に聞かれて国保が確認した腕時計には、しっかりと正しい時間が刻まれていた。当然、八時になどまだなっていない。
「ぬあああっ! 優梨、てめええええっ!!」
その直後、部屋で正しい時間を確認した勇刀の絶叫が屋敷全体に響いた。




