暑き花
次の日の朝に、白根は目を覚ますと、外に出てみた。玄関は電気がまだついておらず、陽の光も窓から入らず、庭を照らす光が異様に眩しく思えた。夏の日陰が心地良く、朝の日のみに照らされる風が玄関から吹いていた。夏の香りを運び、懐かしさと暑苦しさの二つを兼ね備え、白根の心境を妙に熟知しているような風心であった。
女将の気配を感じない為か、玄関は廃墟に似た忘却の風があった。土間から、広い座敷を覗きながら歩くと、外で女の足音が聞こえた。擦れるような柔らかい音であった。
「おはよう」
外に出ると眩しい日差しに目が奪われるような刺激を感じ、咄嗟的に影を求めた。女将は外に立ち、箒を持って掃除をしているようであった。
「おはようございます」
「朝だと言うのに随分と暑いな」
「そうでございますね。冬国の看板が斜め掛かっているようですよ」
「全くだ。こんなだとあんなに嫌悪的だった冬の季節が恋しいようだ」
白根は雪が降り頻る街を想像した。雪に触れた冷たい地面は今や、じりじりと燃え盛るように熱を帯びていた。
「お散歩ですか?」
「ああ」
白根はそう言って、目の前の道路を渡り、女将に一つ頭を下げた。
それと同じように女将を頭を下げていた。白根は旅館の二階窓から見える階段の踊り場の豪華なシャンデリアに目が行った。枯れて輝く栄光がただの風に恐れをなしているように見えた。
通りを散歩して、白根の頭にあるのは初代と女将の事であった。
初代は女将を目の敵のように思っている節があり、その事に女将は恐れを抱いているようである。どうも女同士の少ない関係から溢れる泥臭い怨恨が漂っているのだ。
その目を合わせないお互いのエゴと愛の戦いは当事者をほったらかすかのように自己の中に存在する相手に怯えているように見えた。
「なんとも馬鹿馬鹿しく思える」
白根はそう言うと、近くの寺にあるはずの地獄の絵を見ようと思ったが、結局は見ることはできず、木に佇む蝉を眺めて終わった。声に季節を思わされ、夏の嫌々しさに頭を打たれ、何もせずに終わったことを悔やみながら悲しい思いで宿へ戻った。
歳も違う二人がお互いを恐れ合いながら、それでいて女将は自分よりも歳が下の初代を恐れている。その姿はまるで少女のようで、感性的に言うと初代が悪役を演じているように思えた。
旅館に戻り、部屋に戻ると、初代は目を覚ましており、机に座って本を読んでいた。日の漏れる輝きを浴びるその姿に白根は言葉を奪われた。
「何を読んでるんだ?」
やっとの思いで口にした言葉に初代は
「不如帰よ」と答えた。
初代の言葉に大した興味を示さず、白根は椅子に座ると、一夜にして漂う女の香りを強く思った。
初代の顔に女将の姉の面影を白根は見た。かつて女将の姉を愛していたはずなのだが、女将の姉が亡くなると、それと同時にその愛していた女の姿は記憶の吹く風と共に消え去るように思い出せなくなっていた。だが、こうして、急に記憶から消えたはずの、女将の姉が初代を通して面影として思い出すとは何故なのだろう。その衝撃に白根は初代をじっくりと丁寧に見たが、やはり、似ているわけではない。初代の雰囲気や人となりが女将の姉に通ずるものがあったのだろうか。
その日の朝に二人は旅館を後にした。駅までの道を歩いている時に、白根は女将の姉がその時ばかりに初代に乗り移ったような想像をした。永遠の別離と思っていた過去の女を初代を通じて感じる事ができるとは怖いように美麗であるようであった。
冬は寒さに身を震わすこの地に夏の暑さを差し込もうとは場所も変わったように心持ちがまるで違うのものである。
小さな赤い屋根の駅舎を発見した初代は急いで掛けていった。
その姿が女の面を感じさせず、驚きを持って見つめるばかりだった。




