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消え行く残雪

 青森に着いた時、駅の外から漂う潮の香りに不思議と懐かしさが込み上げ、白根はそれを忘れることは決して無く、そして記憶が白根を迎えに来たように優しい気持ちを抱いた。

 波沿いに来てみると、ゆったりと風によって北東の方へ進む波に地面が動いているかのような幻覚を持った。

 駅を出た途端に雲行きは怪しくなっていくが、雨は降りそうで降ることはなかった。しばらくして、小雨がぽつぽつと音もなく感じたが、これも次期に止むのであろうと思われた。

 鳥の声が遠くに聞こえ、それが海の声と変わっていった。

 雨は降らず仕舞いだが、それでも梅雨に似た雨の蒸した匂いは確かにあり、白根は不快な面持ちだけあった。雲の色は薄暗く穏やかではない空模様は白根の気持ちと重なっていた。

 遠くに見えていた青空もいつの間にか消えていた。

 初代は駅で買ったパンを頬張り、遠くに見える地平線を眺めていた。

 初代の目には故郷の海を思い出すものでもあるのだろうか。白根は海風に靡く初代の髪に目が移り、その髪の先に白く光る健気さをひしひしと思った。

 そしてそのまま二人はバスに乗り、宿へと向かった。

 揺れるバスの中で初代は白根の左腕を掴み、その力強さに白根は彼女の顔に似合わぬものだと感心した。女らしいといえば女らしかった。その強さは生きる上で培ったものなのだろうと白根は思った。

 彼女の自我の隠れたものがこうした些細な事で露見してしまうのはまだ芸者の中でも新米のようであるからであろう。

           ・

 旅館は街の中を歩くと急に驚かすように現れてくる。その威圧感に白根は初めてここを訪れた時を思い出した。入っていいものかと入り口の先を中々超えなかった。まだ男としての機能を手に入れたばかりの頃である。

 初代は白根とは打って変わって、特にこれと言った反応を示すことはなく、その建物をただ、何を思っているのかじっと見ているばかりであった。

 赤い屋根が目につく、和洋折衷の旅館であり、圧倒的な印象をいつも与えてくる。ただ、見慣れてくると、その威圧感も安らぎへと代わり、緊張が身体の中で溶けていくのがわかった。

 旅館に足を踏み入れ、白根はまず緑色の屋根が目についた。そしてその奥の座敷から慌ててこちらへ向かってくる物音がした。

 その時に白根はしまったと思った。女将を見ると、向こうも白根と同じことを思ったか、顔を背けてしまった。

「やあ、久し振り」

「十数年振りですかね。お元気になさって?」

「まあね」

 言葉少なく、白根は初代を連れて、部屋へと向かった。旅館唯一の洋室で、女将の心意気に感謝しつつも、どこかよそよそしい思いがあった。

 幸いなことに初代は気づいていないのか、何か言うことはなく、白根の心底で一息つく音が聞こえた。

 白根は若き頃この旅館を幾度となく訪れていた。それは旅館のまだ女将が若く、女将を名乗る前の時であるが、二人は愛し合う仲であったのだ。結局は女将がお見合いをしなくてはいけなくなり、二人はそれ以降顔を合わすことはなかった。白根は女将のお見合いに自身も出て、女将の両親に顔を見せようと思ったのだが、まだ学生の身分の白根に両親が納得をするはずがないと女将が言い、白根は裏切られた心持を持って青森を離れて行った。それは故郷を捨てる思いであった。

 それが何故、再びこの地で顔を見ることになったのか、ノスタルジーがそうさせたのか、それとも本当にふとした拍子の記憶の物忘れなのか、今の白根にはどうとも言いかねた。それは白根の意思のそこにある記憶の根が白根を操り、そうさせたとも思える程であった。

           ・

 夜に白根は初代の尺で酒を飲んでいた。

「夜は不思議と暑さが消えるわね」

「やはり、冬国なんだよ。夏でも北は多少は涼しいもんさ」

「先生が熱燗をお飲みなさるのもわかるわ」

 初代の手の先のすらりと伸びる白き細長い腕がなだらかに上がると、持っていたとっくりを床に置いた。

「先生、顔が真っ赤よ。今日はもう飲むのはおよしになさって」

「そうだね。君の言うことももっともだ。少しばかり、気が緩んでるんだ。やめよう、もう寝よう」

 白根はそう言うと、すぐさま横になったが、初代はまだしばらくは起きているようで、窓を抜けた先の夜空に目を映していた。何が映っていたのかは横になっている白根の位置からはわかりかねた。

            ・

 深夜に目が覚め、白根は部屋を後にした。部屋を出ると目の前に豪華な階段が広がり、奥には外の様子が見えた。踊り場まで音を立てぬようゆっくりと降りた。手すりがあることで、なんとか暗い中でも転ばずに降りることができたが、そこからは窓を通じてかなんとも言えぬ感情の寒気を感じ、急ぎながら降りて行った。

 土間に人影が見え、白根は目を細くして、眺めた。月光に動く影は女将であった。

「何をやってるんだ?」

「精算です」

「こんな夜遅くに?」

 女将は何も言わず頷いた。白根は土間の座敷に腰を掛け、暗闇のそこに見える綺麗な顔を見た。

「あの子は芸妓?」

「そうだ」

「私たちの事勘ずくんじゃありませんの?女の子ってするどいから」

「どうだかね」

 女将は明らかに女へと変貌していた。その美しさに似た可憐が残っているのもまだ白根の好む女のようであった。

 手を出すことはないものの、その懐かしさに美が貨車を掛け、この時ばかりは白根は初代の事を忘却していた。

「私がそうでしたもの」

「だが、女の子が全て君のようだとは限らないだろう」

 白根はそうは言ったが、逆のことも絶対的に思ってもいなかった。

           ・

 朝になり、土間で白根は隣に初代を置きながら、女将に話し掛けていた。女将の表情は物憂げなものであったが、白根はその様子が面白かった。初代は何を思ったかはしれなかった。

 だが、その後に初代は白根と二人っきりになった時、煙草をふかした煙の先を見て、睨んだような表情を見せた。

「先生は女将さんとはお知り合いなのね」

 疑うでも無く断定の言い方に白根はそこに嫉妬かまたは怒りが入り混じったように聞こえた。だが、それが嬉しいような思いを持った。

「昔、よく訪れていたんだよ」

 初代はしばらくは何も言わなかった。白根は何か言おうか思っていたが、そこで初代は

「女将さんの頬がほんのりと赤かったわね」

 その意味を白根は汲み取るのはよした。考えると不安に襲われるのは明白であったからである。

 初代は何を思ったか、それ以上は何も言わずにいたが、白根に対する不信感は強まっているように思えた。それは恐怖に似た興奮があり、初代の無邪気とも言える。

 白根は初代の髪の先まで悶える嫉妬の炎は静かに灯された事を想像した。それが女らしい醜悪に似た美しさなのである。玄関で書き物をしている女将の所に白根は向かうと、女将は嘆かわしい表情を見せた。

「女の子に知られたらまずいんでしょう。あなたはそこの所変わらないままですね」

「初代が勘付きだしたよ。君の言う通りだ。あの子はしっかりと女の面を身につけてた」

 白根は女将の言葉を返さずに言った。

「ましてや芸妓でしょう。そりゃ、女らしさなんて身につきますよ」

「恐れ入った」

 白根は女将の顔をまじまじと見た。まだ女の性は兼ね備えているようであった。

「神のお姉さんもそうだったね。僕が初めて会う女性じゃなかった」

「姉さんは常に男の目を引いていましたから。歌舞伎役者とお付き合いしていた噂もあったんですよ」

「あったんですよって君は何も知らないのかい?」

「姉は秘密にするのが上手でしたし、私も姉の事はそこまで知らないんです」

 女将の姉は二十四でこの世を去った。その美しさは死した事で消えることなく、永遠に写真の中で輝き続ける。

「君はお姉さんにも似ているんだな」

「そうでもありませんよ。母に似ているんです」

 白根は女将の顔立ちをよく見たが、やや痩せた頬や日本人にしては高い鼻を思うと、やはり、姉のように思えた。それは女将の母の顔を思い出せないからもあった。だが、女将の姉は忘れることが出来ぬほど美に生き続ける。彼女の本当の意味で死に別れるのは、彼女を愛した男が全て鬼籍に入るまでなのだろう。

 初代は女将の事を口にすることはなかったが、その目の先には白根の愛した女が映っていると白根はみた。白根が女将と話をしている時、その横で初代は物を言うことはなかったが、じっと恨みを見せまいとする顔で女将を見て、時折、気が向いたように白根の事も見ていた。女将もその事に気がついていたのか、優しげに初代に話しかけるなどして、緊張を無くそうと努めていた。ただ、それは白根の存在がある限り、表面でのものでしかなかった。

「君、そんなにいじめるような目で人を見ちゃだめだぜ」

 部屋に二人でいた時に、白根は初代に言った。初代の眉が上がり、美しく伸びる首の窪みに薄い影が沸いた。

「そんな風に見えるかしら。私はただ、女将さんと先生が話している時を純情に見ていただけだけど」

「どうも、そうは思えないんだ。それは向こうも思ってるさ」

「私の目つきが悪いって言いたいってこと?でも、私は決して女将さんを悪いようには見てないわ」

 初代は嘘を言って騙してると言うよりは心の中の真実を口にして争いを起こしたくないようであると

みた。それは初代の持つ優しさそのものであり、不器用な嫌味の無い純粋な思いからであった。

「それが本心のようには見えるんだが、私は君と付き合いが長いから....」

 初代は申し訳なさそうな表情を見せ、小さく笑みを浮かべた。赤く光る唇のその眩しさが尊く思えた。唇の端にあった影が消え、その笑みはとても美しかった。

 白根は初代を知った気でいたことを思った。彼女の感情などを考えたことがなかったことを思い、恥じると共に何も言わず、初代の言葉を待った。だが、初代は静を求めているのか、白根の顔も見ずにいた。二人の間には静寂がせせらぎのように流れた。

 白根は出掛けると用を言い、部屋を後にした。初代の胸に問いかけてみたいことがあったが、それに触れるのが怖かった。

 白根は女将の部屋の扉を叩いた。女将は着物を少し着崩したように着ており、右肩が外に触れていた。顔や腕と違い、異常な程に白く、恐ろしくも思えた。

「ああ、あの子。やっぱり私を恨んでいるんですね。とても鋭い子で」

「そうじゃないさ。私は別に初代に君との関係を言ってない。ただ、要は勝手に勘づき、人知らずに憎く思っているだけだ。側から見たら、あの子が妄言を言っているようなものさ」

「でも、当たっているじゃないですか。嫌だわ私、あの子にそんな風に思われるなんて。なんだか、怖いようだわ」

 女将の首筋に汗のような流れ、白根はそれに目を惹かれた。人間らしい、真っ当な自然の仕草であった。その純粋な人間らしさは清く流れていくものであった。備わった美しさを無くすことなく生きている女将を白根は密かに嬉しく思った。

 美しさを作り出す模様が浮き出るようだった。

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