第1話:開かずの納戸と、深い森の匂い
パリ、と味気ない音を立てて、薄いビニールフィルムが裂ける。
指先がかじかむほど冷え切った、深夜の駅のホーム。真昼はベンチに深く腰掛け、プラスチックの包装から覗く三角の黒い塊を見つめていた。
賞味期限の印字は、昨日の夜十一時。
日付が変わったばかりの終電を待つあいだ、胃袋に何かを放り込まなければ明日の朝まで身体がもたないと直感し、駅前のコンビニで値引きシールすら貼られていないそれを機械的に買い求めたのだった。
口に運ぶ。
冷えた米粒は水分を失ってぼろぼろと崩れ、奥歯のあいだで頼りなく擦れ合った。申し訳程度に中央に仕込まれたツナマヨネーズは、冷え固まった油の舌触りと化学調味料の尖った味しかしなかった。
美味いとか、不味いとか、そんな感情はとうの昔に擦り切れていた。
ただ、明日もまた鳴り響くオフィスの内線電話と、受話器の向こうから容赦なく浴びせられる怒号に耐えうるだけのカロリーを、内臓という焼却炉に放り込んでいるだけだった。
「小鳥遊さん、この見積書、先方の部長から数字が合わないって怒りの電話入ってるんだけど! どうなってんの!?」
「申し訳ありません、営業部からいただいた元の修正データが――」
「言い訳はいいから! 先方に頭下げて、終電までに再提出用の稟議作っておいて。あ、明日の朝イチの会議資料もお願いね」
新卒で中堅商社に入社してから、丸四年。
真昼の担当は営業事務だった。けれど、その実態は営業マンが散らかした尻拭いと、取引先からの理不尽なクレームの防波堤、そして誰にも感謝されない雑務の集積所だった。
毎日、終電の一本前か、あるいは終電そのものに飛び乗る日々。
休日は泥のように眠り、日曜の夕方になると喉の奥が詰まったように呼吸が浅くなり、胃のあたりを鈍い鉛の塊で圧迫されるような悪心に襲われる。
自律神経が音を立てて崩壊したのは、ある肌寒い雨の朝のことだった。
目覚まし時計が鳴り、止めようと腕を伸ばした瞬間、天井がぐるりと激しく回転した。身体を起こそうとしても、鉛を流し込まれたように手足が敷布団に縫い付けられて動かない。喉から出たのは、掠れた嗚咽だけだった。
――あ、もう、無理だ。
糸が切れるというのは、こういう感覚を言うのだろう。
真昼はその日のうちに、震える指で退職代行サービスに連絡を入れた。引き継ぎも、同僚への挨拶も、何もかもを投げ捨てた。後ろめたさがなかったと言えば嘘になる。だが、あのままあそこに留まっていたら、真昼は確実に自分自身の命か心を殺していたはずだった。
***
がらんとした空間に、からころと乾いた風鈴の音が響く。
東京の狭い賃貸ワンルームを引き払い、真昼が身を寄せたのは、半年前に他界した祖母・タエが遺してくれた山あいの古民家だった。
四方を青々とした山に囲まれた、小さな盆地の端。駅から車で三十分以上かかるその場所は、コンビニに行くのにも軽トラックを出さなければならないほどの田舎だったが、今の真昼にとっては、世界で一番安全なシェルターに思えた。
縁側に腰を下ろし、深く息を吸い込む。
排気ガスとアスファルトの焦げた匂いではない。青々とした草木の匂いと、古い土壁、そして日差しをたっぷり吸い込んだ畳の香りが、肺の隅々まで満ちていく。
「……静かだなあ」
思わず零れ落ちた呟きは、誰に咎められることもなく、初夏の柔らかな風に溶けて消えた。
けれど、安堵のすぐ後ろには、冷え冷えとした現実がぴったりと影のように張り付いている。
真昼は今年で二十六歳になった。職歴は中堅商社の事務が四年。誇れるような資格もなければ、胸を張れる特技もない。
手元にあるのは、雀の涙ほどの退職金と、日々の切り詰めた生活で貯めた数百万円の貯金だけだ。
この家があるから家賃こそかからないものの、毎月の光熱費や食費、そして容赦なく届く住民税や国民健康保険の通知書が、無職となった真昼の首を真綿のようにじわじわと絞めてくる。
このままここに隠れていて、一体いつまで生きていけるのだろう。
貯金が底をついたら、またあの息の詰まる都会へ戻り、満員電車に揺られて頭を下げる日々に逆戻りなのだろうか。
「……駄目だ。考えても答えが出ないことをぐるぐる考えるのは、やめ、やめ!」
真昼は両手で自分の頬を思い切りパチンと叩いた。
余計な思考に足を取られて沈み込む前に、身体を動かそう。祖母が亡くなってから半年間、ほぼ放置されていたこの屋敷には、片付けなければならない荷物が山のようにあった。
手ぬぐいで前髪を上げ、動きやすいジャージの袖を捲り上げる。
祖母のタエは、昔気質の丁寧な暮らしを愛する人だった。台所には黒光りする鉄鍋や羽釜が並び、納屋には自家製の味噌樽や梅干しの瓶が整然と並んでいた。子どもの頃、夏休みに遊びに来るたび、祖母が作ってくれた料理の数々が脳裏をよぎる。
庭で採れたばかりの茄子を甘辛い味噌で炒めたもの。
朝一番に削り器で削ったばかりの本枯節で引いた、黄金色の出汁が香る大根の味噌汁。
あんな風に、いつか自分のためだけに、美味しいごはんを丁寧に作って食べられるようになりたい――。激務に追われてコンビニ飯を貪っていた頃、真昼が心の底でずっと焦がれていたささやかな願いだった。
雑巾をバケツの水で固く絞り、廊下を拭き上げながら奥へと進む。
一番奥、薄暗い廊下の突き当たりにある部屋の前で、真昼の足が止まった。
子どもの頃、タエから「あそこは古いものがたくさん置いてあるから、危ないから入っちゃいけないよ」と言い聞かされていた、いわゆる『開かずの納戸』だった。
恐る恐る引き戸に手をかけ、横に引く。
重い木が擦れ合う「ギギギ……」という軋み音とともに、埃っぽい薄闇が広がった。
障子窓から差し込むわずかな木漏れ日を頼りに中を見渡すと、古い桐箪笥や埃をかぶった行李、古めかしい掛軸などがうず高く積まれていた。まるで昭和の初期で時間が止まってしまったかのような空間だ。
マスク越しに小さく息を吸い、真昼は部屋の最奥へと足を踏み入れた。
そこに、異様な存在感を放つ場所があった。
「……押し入れ?」
部屋の一角を占める、一間幅の押し入れ。
だが、その襖には、異様な仕掛けが施されていた。
二枚の襖の合わさり目に、頑丈な黒鉄の金具が打ち付けられ、そこには拳ほどもある大きな真鍮の南京錠が掛けられていたのだ。
家の中の、それも納戸の押し入れに、わざわざ南京錠を取り付けて封印するなど、尋常ではない。金目の物でも隠してあったのだろうか。けれど、タエがそんな大金を溜め込むような人ではなかったことは、真昼が一番よく知っていた。
真昼はふと、ポケットの中に手を入れた。
指先に触れたのは、片付けの最中に仏壇の引き出しで見つけた、小さな桐の小箱。その中に、色褪せた紫の組紐を結ばれた、一本の古い鍵が入っていたのだ。
鈍い光を放つ、重みのある真鍮の鍵。
先ほどまでは何に使うものか見当もつかなかったが、目の前の南京錠と見比べてみると、鍵穴の形が見事に一致している。
「……これ、おばあちゃんが大事にしまってた鍵だよね」
胸の奥で、トクンと小さな警鐘が鳴ったような気がした。
開けてはいけないのではないか。見てはいけない秘密が、この押し入れの中に眠っているのではないか。
けれど、それ以上に真昼の好奇心と、祖母の遺品をすべて受け止めたいという衝動が勝った。
真昼は息を止め、真鍮の鍵を南京錠の細い溝へと差し込んだ。
カチリ。
油が切れているはずなのに、鍵は驚くほど滑らかに回り、心地よい金属音を立てて重い錠前が外れた。
がちゃりと金具を外し、床の上に置く。
深呼吸をひとつ。真昼は襖の引手に指をかけ、力を込めて右へと滑らせた。
――バサリ。
埃が舞い散り、カビの臭いや古い布の匂いが鼻をつく――はずだった。
だが、襖が開いた瞬間に真昼の顔を打ったのは、まったく予想もしないものだった。
「…………え?」
ひんやりとした、冷涼な風。
それは、真夏の古民家の淀んだ熱気を一瞬で吹き飛ばすほどに清らかで、透き通っていた。
鼻腔をくすぐったのは、針葉樹の深い緑の匂いと、朝露に濡れた湿った土の香り。そして、どこか甘やかで瑞々しい、野生の果実のような微かな芳香だった。
埃っぽさなど微塵もない。
まるで、深い山奥の原生林のど真ん中に、いきなり放り出されたかのような感覚。
真昼は瞬きを繰り返し、押し入れの中を凝視した。
そこにあるはずの「中段の棚」も「奥の板壁」も、存在しなかった。
押し入れの敷居のすぐ向こう側には、青々とした見慣れない苔の絨毯が広がり、その先には天を突くほどに巨大な、大人が十人でも抱えきれないような巨木が何本も鬱蒼と立ち並んでいた。
木々の隙間からは、淡いエメラルドグリーンの光の筋が幾筋も差し込み、宙を舞う金色の胞子のような粒をキラキラと照らし出している。
「うそ……でしょ……?」
押し入れの枠が、まるで切り取られた額縁のように、信じられない異次元の光景を縁取っていた。
後ろを振り返れば、見慣れた日本の古い納戸。畳があり、埃をかぶった箪笥がある。
けれど、前を見れば、見たこともない幻想的な深い森。
幻覚を見ているのだろうか。仕事のストレスと無職の不安で、ついに脳の神経まで焼き切れてしまったのだろうか。
真昼は恐る恐る手を伸ばし、押し入れの敷居を越えて向こう側の空気に触れてみた。
ひやり、と冷たい風が指先を撫でる。
確かな実体があった。湿り気を含んだ大気が、肌を心地よく潤していく。
意を決して、靴下を脱ぎ捨て、裸足のまま右足を一歩、押し入れの向こうへと踏み出した。
――ふにゅ。
足の裏を包み込んだのは、驚くほど柔らかく、湿り気を帯びた極上の苔の感触だった。
冷たくて、けれど痛くはない。
続いて左足を踏み出し、真昼は完全に押し入れの枠をくぐり抜けた。
思わず振り返る。
背後には、まるで空間に唐突に穿たれた穴のように、真昼が今しがた抜け出してきた「古民家の押し入れ」の内側と、薄暗い納戸の畳が見えていた。枠の外側は、苔むした岩肌と同化しており、遠目から見ればただの崖の窪みにしか見えない。
鍵を握りしめたまま、真昼は大きく息を吐き出した。
肺の奥まで澄み切った空気が満ちていき、頭の芯を重く締め付けていた偏頭痛が、嘘のようにすっと引いていくのが分かった。
耳を澄ませば、梢のあいだを渡る風のざわめきと、鈴を転がすような聴き慣れない鳥たちのさえずり。
車の走行音も、電車の踏切の音も、オフィスの電話のコール音も、ここには何ひとつ届かない。完全なる、静寂の世界。
「すごい……本当に、森の中に繋がってる……」
呆然と立ち尽くしていた真昼の視界に、木立の向こうの影が飛び込んできた。
木漏れ日の差し込む小道を数十歩ほど歩いた先に、ぽっかりと開けた小さな広場があった。
その中央に、まるで絵本から抜け出してきたかのような、小さなログハウスが佇んでいたのだ。
丸太を丁寧に組み上げて作られた平屋の小屋。屋根には頑丈な石板が敷かれ、壁の横からは丸い石を積み上げて作られた素朴な煙突が伸びている。
放置されて荒れ果てている様子はない。人が住んでいる気配こそ希薄だが、庭先は綺麗に掃き清められ、テラスには無骨ながらもしっかりとした木製のテーブルとベンチが据え付けられていた。
テラスの階段を上がり、真昼はログハウスの分厚い木の扉の前に立った。
取っ手に手をかけると、鍵はかかっておらず、静かに内側へと開いた。
中に入ると、心地よい木の香りが鼻腔をくすぐった。
十畳ほどの広々としたワンルーム。
中央には石造りの暖炉兼かまどがあり、壁際には頑丈な作業台と、いくつかの簡素な棚。奥には干草を敷き詰めた上に毛布を重ねただけの、質素なベッドが置かれている。
作業台の上には、真鍮のやかんと、木製のカップ、そして使い込まれた鉄の小鍋が埃を払われた状態で並んでいた。
まるで、誰かが「いつでも戻ってこられるように」準備を整えておいたかのような部屋だった。
「ここ……おばあちゃんの、場所だったのかな」
ふと、真昼の胸にそんな予感がよぎった。
あの納戸の押し入れに厳重に南京錠をかけ、真昼たち家族にも決して近づかせなかった祖母。
タエは生前、時折ふらりと姿を消しては、どこから採ってきたのかも分からないような、信じられないほど香りの良い野草や木の実を台所に持ち帰っていたことがあった。
あの時のタエの、悪戯が見つかった子どものような楽しげな笑顔。
あの日々は、すべてこの場所と繋がっていたのではないか。
ぐるるるる……。
静かな小屋の中に、真昼自身の情けない腹の虫の音が響き渡った。
そういえば、朝から何も食べていなかった。昨夜の冷え切ったツナマヨおにぎりの味気なさを思い出し、真昼は苦笑いを漏らす。
押し入れの向こうには、祖母が遺してくれた古民家がある。
そして、押し入れのこちら側には、静かで、豊かで、誰も自分を傷つけない美しい森と、この小さな小屋がある。
「……まずは、古民家に戻って、ちゃんとお昼ごはんを作ろう」
乾いた心に、小さな火が灯るような感覚があった。
コンビニの棚から選ぶのではない。自分の手で火を起こし、湯気を立て、出汁の香りに包まれるような、あたたかいごはんを。
真昼はもう一度小屋の中を見渡し、そっと扉を閉めた。
木漏れ日の揺れる森の小道を戻り、苔の敷居をまたいで、慣れ親しんだ納戸の畳の上へと帰還する。
押し入れの襖を引き、真鍮の鍵をポケットに収めた時、真昼の心を満たしていたのは、かつてないほど穏やかで前向きな好奇心だった。
都会の喧騒から遠く離れた山あいの古民家と、その押し入れの奥に広がる異世界の森。
限界まで擦り切れていた元OL・真昼の、美味しくてあたたかな二重生活の扉が、いま静かに開かれたのだった。




