36話 世界
国王との話から数日後の朝、リラが身支度を整えていると、メルから今日の予定を告げられた。
「本日から、マチルド先生による授業が始まります。皆さまは、いかがなさいますか?」
メルが七匹へ目を向けると、ネロがすぐに顔を上げた。
「リラ様、私もぜひご一緒させてください。学問のお話には興味がございます」
ネロの返事に、リラは微笑んだ。
「もちろん。一緒に行こうね」
「オレは庭園だな。今日は寒いし、あったかいところで過ごしたいぜ」
レオがそう言うと、トウカも勢いよく顔を上げた。
「ぼくも! 庭園の方があったかいもんね」
ノエル、セナ、テトも庭園で過ごすことに賛成した。
「僕はリラと一緒に行くよ」
最後にルナがそう言って、リラのそばへ歩いてきた。
「メルさん、ルナとネロは授業に、ほかの五匹は庭園へ行きたいそうです」
「かしこまりました。それでは、ご案内いたしますね」
リラはルナとネロを連れ、メルの案内で王城の学習室へ向かった。
部屋に入ると、机のそばに、髪をきちんとまとめた年配の女性が立っていた。
まっすぐに伸びた背筋と静かな佇まいに、リラも姿勢を正したが、こちらを迎えた眼差しは穏やかだった。
「リラ様ですね。マチルド・モローと申します。長く王家の方々の教育に携わってまいりました。本日から、どうぞよろしくお願いいたします」
「リラと申します。よろしくお願いいたします」
マチルドは足元のルナへ向き直り、深く頭を下げた。
「古き縁の祖。お目にかかれますことを、光栄に存じます」
「ありがとう。リラをよろしくね」
メルが一礼して退室すると、マチルドはリラに椅子を勧め、向かいに腰を下ろした。
ネロは椅子の脇へ座り、ルナは机の空いている端へ飛び乗った。
机には厚い本と紙、ペンが置かれ、巻かれた羊皮紙が用意されていた。
「今日は、この世界の成り立ちからお話ししましょう。九祖霊や始祖王については、どのくらいご存じですか」
「ルナが九祖霊だということと、始祖王が今の国々の礎を築いた人たちだということは、ルナから聞きました。でも、詳しいことまでは……」
「では、その始まりから辿ってみましょう」
マチルドが開いた本には、大きく枝を広げた樹と、その周りに九つの姿が描かれていた。
「世界の始まりには、世界樹と呼ばれる樹があったと伝えられています。その樹が、世界を創るために自らを九つに分け、生み出したのが九祖霊です」
「えっ、じゃあルナも、もとは世界樹だったの?」
思わずルナへ顔を向けると、ルナは開かれた本を見つめていた。
少し間を置いてから、リラを見上げた。
「……そうだよ。僕も世界樹から生まれたんだ」
それだけ答えると、ルナは再び本へ目を戻した。
「九祖霊は、それぞれ違う役目を担っています」
マチルドが本の挿絵を指し示した。
枝の下に描かれた姿を順に見ていくと、一頭の馬の額から、細い角が伸びていた。
「躍進を司る馬は、前へ進み、発展していく力を。創造を司る竜は、新しいものを生み出す働きを担います。ものを知り、学ぶことを司るのは、知識の梟です」
「ストリクス魔術院の紋章にも、梟がありました」
「魔術院のあるロウェル王国は、その梟を祖とする国なのです」
鷲の胸元にあった紋章を思い浮かべながら、リラは梟の絵を見直した。
「人々を守り、秩序を支えるのが守護の狼。そして、人と人、さまざまなものの結びつきを司るのが、縁の猫です」
猫の絵のそばには、『縁』の文字が記されていた。
ルナ自身から聞いた言葉だった。
リラが本の向こうを見ると、ルナも絵を見ていて、片方の耳だけをこちらへ向けた。
「再生の蛇は、医療や命の回復に深く関わる祖霊です。魂の蝶は、信仰や運命と結びついて語られています」
「そういえば、オルディナのアルバ医院に、セルペナと……オロヴァ、でしたっけ。その二つの国で学んだお医者様がいると聞きました」
「どちらも蛇の祖霊にゆかりのある国ですね。オロヴァは、もともとセルペナから分かれた国なのですよ」
「国が分かれたんですか?」
「ええ。そのお話は、あとで地図を見ながらしましょう」
マチルドは本の残りの二つを示した。
「こちらは時間を司る亀です。歴史や記録とも関わりの深い祖霊ですね。そして、異なるものが共に生きるための釣り合いを保つ、調和の妖精。この九柱が、それぞれの役目を担って世界を築いたと伝えられています」
リラは本に描かれた九つの姿を見渡し、始祖王のことも気になった。
「九祖霊が九柱なら、始祖王も九人いたんですか?」
「ええ。九祖霊がそれぞれ一人ずつ人間を選び、その九人が最初の九つの国を築いたのです」
マチルドはルナへ目を向けた。
「古き縁の祖。差し支えなければ、始祖王がどのようなお方だったのか、お聞かせ願えますか」
ルナはすぐには答えなかった。
本へ向けられていた耳がわずかに動き、前脚のそばへ尾の先が寄せられた。
リラがそっと顔を覗くと、ルナは本の猫の絵を見ていた。
「……記録にあるとおりだよ。優しくて、立派な王だった」
顔を上げたルナの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
リラはその先を待ったが、ルナは本の猫の絵へ目を戻した。
「ありがとうございます」
マチルドは静かに礼を述べ、机の端に置いていた地図を広げた。
どんなふうに優しかったのか、聞いてみたかった。
けれど、ルナはもう何も話さなかった。
「こちらが、今の世界地図です。現在は十七の国があります」
マチルドが両端を押さえると、巻かれていた羊皮紙が机の上に落ち着いた。
リラは描かれた国々の名を辿り、レオパルドの文字を見つけた。
その名を囲む線の向こうにも、知らない国の名が幾つも並んでいた。
「先生、初めは九つだったのに、どうしてそんなに国が増えたんですか?」
「長い年月のうちに、一つの国から分かれ、独立する国が生まれたためです。国の治め方を巡って争いになることもありました」
机の端でルナが立ち上がる気配に、リラは顔を上げた。
「ルナ、もう行くの?」
「うん。先に庭園で待ってるね」
「……うん」
ルナは床へ下りると、壁際の転移魔石へ歩いていった。
前脚で石に触れると淡い光が広がり、小さな白い姿が消えた。
ネロはルナが消えた場所を見つめていたが、やがて顔を窓へ向けた。
リラもしばらく魔石を見ていた。
「リラ様、続けてもよろしいですか」
「……はい、お願いします」
リラは机へ向き直った。
マチルドは地図の三か所を指で示した。
「すべての国が分かれたわけではありません。ロウェル、イリス、フィオレンティアの三国は、始祖王の時代から分裂せずに続いています。けれど、私たちがいるレオパルドは、そうではありません」
「レオパルドも、ほかの国から分かれたんですね」
「ええ。フェリシテ、パンテラ、レオパルドは、かつて一つの猫の国でした」
リラは、地図に並んだ三つの名前を見比べた。
自分が生まれた国と、今暮らしている国が、もとは一つだった。
「どうして、分かれたんですか?」
「王族の中で、猫を相棒にする方が長く現れなくなったのです」
リラは椅子の脇のネロを見た。
黒い耳が、こちらへ向いた。
「猫に選ばれないと、王様ではいられなかったんですか?」
「すぐに王位を失うわけではありません。ですが、猫に選ばれた始祖王が築いた国です。何代も相棒が現れないことに、疑問を抱く人々が出てきました」
マチルドは地図に目を落とした。
「始祖王の血筋を重んじる者と、それだけでは足りないと考える者。両者の対立は深まり、やがて国は三つに分かれたのです」
マチルドの指が、三国の境をなぞった。
リラはその線を目で追った。
猫に選ばれるかどうかで、国まで分かれてしまうなんて——。
リラは改めて地図を見渡した。
ほかの国々にも、それぞれ違った歴史があるのだろうか。
マチルドは続けて、ほかの国々の成り立ちについて話し始めた。
リラも時折質問を挟みながら、知らなかった世界の歴史に耳を傾けた。
やがて、マチルドが本の頁をめくると、そこにも猫の姿が描かれていた。
最初に見た九祖霊の絵を思い出し、ほかの挿絵にも目を向けた。
どの猫も、成猫の姿をしていた。
ふと、先ほどまで机の端に座っていたルナの姿が浮かんだ。
長い年月を生きてきたはずなのに、ルナは今も小さな子猫の姿をしている。
どうしてルナだけ、子猫の姿なのだろう。
お読みいただきありがとうございます。
毎週火・土の20:10更新となります。
引き続きお楽しみいただけましたら嬉しいです。




