#9 性的な意識
沙夜と共同生活を始めて、金土日月と早四日が経った。
そして、今日は火曜日。七限授業という高く険しい山を乗り越え迎えた本日は、わりかし楽な教科ばかりの日だ。特に実験や体育といった移動教室がないところが素晴らしい。なぜなら、授業中はずっと沙夜と駄弁をしていればいいのだから。他の生徒には申し訳ないけれど、窮屈から解放された学園生活は、気持ち的にはとても晴れ晴れとする。そのため心は軽かった。
我が家で暮らす憑きもの――沙夜は、意外と聞き上手であり、どんな些細な話題にも食いついてきてくれる。大したオチのない話に対しても大層なリアクションをよこしてくれるので、ラジオ収録前のコメディアンにでもなった気分だった。
今日はなんの話を沙夜にしてやろうか、と若干、心を躍らせる。
しかし――。
『わ、私、学校行きたくありませんっ!』
今朝になって沙夜はそんなことを口走った。
外で待つ奈緒に急かされているような気がして、迅速に着替えを進めていた僕だったが、沙夜の“思い”に気付き、一度動きを止めていた。
行きたくないって、昨日一日で学校が嫌になってしまったのだろうか。たった一日しか通っていないというのに、これだから現代っ子は……。――まで、くだらない思考を働かせたところで、否定する考えが頭によぎった。
いや、僕と一緒にいた時の沙夜は、上機嫌そのもので、そんなようすは見られなかった。だとすれば、僕が体育の授業を受けている時になにかが――。
思慮を中断する。深く考えるのはよそう。僕には思い当たる節がないからだ。大体、それを追及すると言った行為はナンセンスであり、なんの収穫も得られなかったとした場合、沙夜との関係に面倒な溝が生まれること必至だろう。
それに、沙夜が行きたくないと言うのなら、別に来なくともかまわない気がする。妖力的な意味で一日ぐらい傍にいなくても平気だろうし、なによりもこのままでは、僕の精神がもたない気がしたからだ。
これは昨日一日で痛感したことだけれど、半憑依状態の間、僕の影が沙夜の姿かたちを表していることを、他の生徒に気付かれないようにするには、繊細な気遣いと咄嗟の判断力が必要であり、えらく精神が削がれる。
『あ、そう。だったら僕としても都合がいい。今日は家で大人しく待っていろ』
学ランの袖に腕を通しながら僕が素っ気ない“思い”を発すると、沙夜はひどく慌てて、影から飛び出てきた。
「ええええええっ! そんな淡泊な対応しなさりますかっ!! もう少し考えてくださいよ! 悩んでくださいよっ! 悶々としてくださいよっ! フリだけでもかまいませんからっ!」
そのまま、吐息がかかるほどの距離にまで顔を接近させて、潤んだ目を僕の眼下に迫らせる。だから顔が近いって――。
「落ち着け。半日ぐらい留守番してろよ。っていうか、お前、学校ついてきたって、能天気にふわふわしてるだけじゃないか。さほど妖力を使っているようには見えないぞ」
「ふ、ふわふわって、人をケセランパセランみたいに言わないでくださいっ!」
「いや、人じゃなくてお前は憑きものだろ」
「うぁ……。と、ともかくっ!! 妖力を半日も摂取できないなんてつらすぎますっ! ご主人様は軽んじているようですが……、人間がごはんを一食ぬくのとはわけが違うんですよっ!」
耳元近くで黒板をひっかいたような甲高い声を浴びせられ、僕は反射的に耳を塞いだ。
「私は周りの漂う空気に敏感なんですっ! デリケートなんですっ! 刺激が強いと弱ってしまうんですっ! 大切に育ててあげないと死んでしまいますっ!」
「あああ! キーキーうるさいな! そりゃ自分で言うことじゃないだろ! お前は露店の金魚かーッ!!」
沙夜の露出した肩を軽く掴んで距離を開け、説得するような穏やかな口振りで、僕は言った。
「お前は僕にどうして欲しいんだよ? 学校を休めと言っているのか、それはあまりにも横暴だ」
「そうは言ってませんけど……」
「かまってちゃんじゃないんだから、今日ぐらい大人しく家にいろよ。ともかく、休むのは無理なんだよ、京子さんに迷惑かけたくないし」
京子さんに迷惑をかけないように、その理由だけで、僕は小学校入学時から高校一年になる今という今まで、学校を休んだ経験がなかった。
とはいえ、無病息災の健康男児というわけでもない。風邪を引くことはあるのだが、その時期が、春休み、ゴールデンウィーク、夏休み、冬休み、といった具合に、遍く、長期休暇の時ばかりだったのだ。単に風邪を引くタイミングが良かっただけと言うべきかもしれないが、学校を休んだことがないという快事は真実である。
いわば、学校を休むという行為は、信じがたいことだと捉えているのだった。簡単に休んだり、サボったりする人の気がしれない。
「わ、わかり、ました、けど……。わかりました、けど……」
沙夜は歯切れの悪い言葉をくり返し、結局、
「わかりましたけどぉーーーーーッ!!」
それだけ叫んで、布団の中に閉じこもってしまった。
けどなんだよ……?
いまいち、憑きものが考えることはわからない。
「じゃあ、行ってくる。くれぐれも家で大人しくしてろよ。もし、僕の部屋で変なことしたら寺に突き出すからな」
それだけ声をかけ、ドアノブを回した。一応待ってみたが、沙夜からの返答はない。引きこもり学生のごとく、だんまりを決め込んでいる。――と思いきや、布団の中から、あほぉ、と聞き取りづらいくぐもった声が聞こえた。すねているのか?
そのまま部屋を出る。僕には腑に落ちないことが多すぎて、しばし、頭を捻ることになった。沙夜との生活を顧みながら階段を下りる。
――『わ、私、学校行きたくありません!』
同じ部屋で暮らすようになってから、こんなことは一度もなかった。僕は僕で沙夜を酷使しなかったし、沙夜も沙夜でそんな生活に不自由ないと感じている――そう思っていた。今でもその考えは変わらない。
「反抗期、かな……、いや、まさかな」
確かに、時折、生意気な口を叩くようなこともあったが、平素の行いは僕に対して従順そのものだったといえる。もっと心を砕いて接してきてもいいと思うぐらいに――。
かといって、何一つ、原因と考えられる事象が見当たらないわけではない。
ちょっとした予想はあった。
それは、沙夜が僕のことを“主と認めていない”のではないか、ということだ。使役されることを生きがいとしている“憑きものという生き物”は、僕のような欲がない人間に愛想を尽かす。そういったことがあるのかもしれない。もっと、強欲になって自分を使役しろというように――。
けれど、それはムリな話だ。僕の性格は断固として変わらないことだろう。いくら沙夜が、わめこうが、泣き叫ぼうが、情けをかけるつもりはないし、憑きものを使って、人を傷つけたくもない。憑きもののためにそこまでしてやる義理はない。余所事だと割り切ればいい話だ。
しかし、家を出るころになって、不安が募り始めていた。心に宿った不安の種を吐き出すように溜息をつきつつ、ぞんざいに靴をはいた。憑きものにここまで心を乱されていることが悔しかった。
そんな陰鬱とした気分を悟られないように、奈緒とは、できるだけ陽気に接することだけを決めて、家のドアを開いた。
外には、奈緒が外壁にもたれながら、突っ立っていた。彼女はとても眠たそうであり、鼻をつまむような動作でねむた眼を起こしている。そんな奈緒に、僕は唇を綻ばせ、右手を仰々《ぎょうぎょう》しく掲げながら、大げさに挨拶した。
「あはは~! おはよう、奈緒! 今日も麗かな日和だなぁ! ほら見てごらん! お天道様が微笑んでいるよ!」
いつもよりも断然明るかったと思う。
しかし――
「あーちゃん、今日元気ないね。なんかあったの?」
――あっけなく見抜かれてしまった。
「……あ、れ?」
なぜだろう――。
一生懸命、メーターが振り切れるほどの元気を演じている僕を、一瞥しただけで『元気がない』と断言したことは、理解できない。たとえば、『気でもおかしくなったんじゃないか』とか、『ねじが飛んでいるんじゃないか』とか、『躁病の気があるんじゃないか』とか、そんな理由で、“テンションがおかしい”と疑われるんだったらまだわかるが――。
奈緒はいわゆるジト目というやつで、僕の顔を疑わしげに見つめる。僕は狼狽しながらも、なぜそう思ったのか、理由を質すことにした。
「ど、どうしてそう思う?」
「だって……、なんか気持ち悪い……。というか不快……不愉快」
気が付けば、幼馴染みの顔が完全に引きつっていた。
「失礼な奴だなっ! そういう言葉に僕が弱いことを知って言ってるだろっ!」
罵詈雑言に対しての抵抗力を持たないぬるま湯系男子の僕にとって、その手の悪口は結構、胸に突き刺さる。もちろん、それは奈緒も熟知していてのこと。あえて、からかうような態度で僕と接しているのだ。そんな風にバッサリと失礼極まりないことを言えるのは、幼馴染みだからなのか、奈緒が竹を割ったような性格をしているからなのか。
奈緒はそこまで深く詮索することなく、駅までの道程を歩き出した。今日はとくに冷え込んでいるため、彼女は学校指定のセーラー服の上に、赤色のカーディガンを羽織っている。ヘアピンの色は桃色だ。そして、ベージュチェックのスカートをはためかせながら、くるりとこちらに顔だけ向けて、
「それにしても寒いねー。寒天の下、ひとりで駅までいくなんて、ありえないよねー、ねね、私のことかわいそうだと思わない? あ、そうだ、今日も駅まで着いてきてよ」
と心底寒そうな声で言った。悲壮感漂う彼女の口振りも、僕の憐れみを誘うための演技に他ならなかった。そこまでわかっていながら、その場の流れに気圧されるように僕は返答する。
「まぁ、いいけど。ついでだし」
「やった」
ここで、ずっと真剣な顔つきを保っていた奈緒が、白い歯を見せて笑った。細い髪がふわりと揺れて、さわさわと音を立てる。
「さ、寒いからさっさと行こう」
僕はごまかすように颯爽と小走りした。道路の脇道を少し歩き、大通りに出てからまっすぐと歩く。
なんとなく遠くに目を向けていると、僕らの進行方法を逆流するように、うちの学校の制服を着たアベックが、自転車に二人乗りで遠方より来るのが見えた。おいおい、学校とは逆方向だぞ。品行方正な僕は、彼らを見て顔をしかめていた。実にふしだらだ。
「ねえ、あーちゃん。そういやテストどうだった?」
彼女はアベックのことを大して気にかけていないようだった。品行方正であるはずの僕は、彼女の言葉に動揺させられてしまう。無論、心胆寒からしめるほどの悲惨な試験結果が、僕のカバンには詰まっているからだ。
「え、ああ、まだ全教科返ってきたわけじゃないけど、今のところ、可もなく不可もなく……と言ったところかな、あは、あはは」
我ながら見事なまでの空笑いであった。ひょっとすれば、僕には虚言癖があるのかもしれない。最近、奈緒に嘘をついてばかりな気がする。
奈緒は手に持ったカバンで僕の腰辺りを小突いて、変質者と相対したような目で僕の顔を見た。今日の彼女は、どことなく不機嫌な気がする。
「なーんか怪しいなぁ。赤点とかとってないよね? シャレにならないよ?」
「けほ……」
息がつまった。言わずもがな図星である。返答に窮した僕は黙りこくった。同年代の彼女から説教を受ける気分は、とてもじゃないが、心地よいとは言い難い。
「もうすぐ新学期だよ。赤点なんてとってたら新入生に合わせる顔がないでしょ。それにもうすぐ間宵ちゃん“も”返ってくるんじゃなかった? もうちょっと間宵ちゃんが胸を張れるほど、お兄ちゃんらしくしないと」
妹をテストみたいな扱いをするのはやめてほしい。幕無しと並べられた奈緒の叱責の言葉に対し、返す言葉が見つからない僕は、再びだんまりを決め込むはめになる。僕はあまり口を開かない。奈緒は能弁家であるので、彼女と対話する時は七を聞いて三を語るぐらいでいいと判断しているからだ。
奈緒は溜め息をついた後に、両手を空に掲げ、さぞかし気持ちよさそうに伸びをする。つられて僕も大きな欠伸を吐き出した。ぽかぽかと朝日が僕の眼を閉じさせようと意気込んでいるように感じる。本当のところは、11月初頭の穏やかな気候のことをそう呼ぶのらしいが、僕はあえてこの心地よさを小春日和のようだと表現した。
奈緒は縁側でくつろぐ猫のように伸びをしたまま、目を細めてもう一度溜息をついた。
「かくいう私も、あんまりいい結果ではなかったんだけどね。なーんか、ダメだなー。勉強だけでも頑張ろうとしているんだけど」
「随分と同情を誘うような言い回しだな。だけでも、なんてさ」
「私、変わりたいんだ」
「変わりたい?」
「陸上やるつもりはないけどさ、なにかしらの趣味を見つけたいのよ。それにしてもさー。あーちゃんは昔から変わらないよね」
「変わらない。それはいいことなのか?」
彼女は首を傾げ、少し考え込んだ。
「いい意味でもあるよ。悪い意味でもあるかもね。がんこな風に装っているけど、能天気だし、それでいて、意志薄弱で。それと昔から嘘をつくのが下手だった。――ほらね、まるで成長していない」
「へ、へえ、全て悪口のようにしか聞こえないんだけど」
扱いやすくていいじゃん、と奈緒は他人事のようにけらけら笑った。それはお前の都合だろう?
「奈緒は変わったよな、……見た目が特に」
この時、陸上をやめたから、というひとつの要因は出さないようにした。禁句というわけではないが、極力当時のことを話題にしないように、心がけている。
奈緒が子供のようないたずらな笑みを見せた。
「へへへ、可愛くなったでしょ。私自身いまだに見慣れないんだけどね」
無邪気に得意顔をする奈緒の横顔を見て、僕は彼女に気付かれない程度に頷いた。彼女の言葉が、僕の胸にそのまま浸透したような気分だった。否定するところがなにひとつとして見つからない。奈緒と対話をしているうちに、朗らかな気持ちになった。沙夜に対しての不安や悩みのほとんどが、一時的に消し飛んだ気さえした。
その流れのまま、駅まで彼女を送り届け、僕は元来た道を引き返し、学校へと向かうことにした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
予想通り、授業内容は昨日よりもしんどくなかった。そのせいか、一日があっという間に終わった気がした。いつも通りの日常と変わらぬ学校を終えて、僕は家路を歩く。それにしても――。
いつも通りの日常に物足りなさや、物寂しさを感じるのはどうしてだろう?
途端、沙夜の顔が頭を横切った。これはマリア先生が言ったように、後天的な常識の変化というやつ、なのかもしれない。いや、根拠と呼べるものを持ち合わせているわけではないので、なんとなくそんな気がしただけに過ぎないが。
ひょっとすれば、沙夜と一緒にいる生活に身体が順応し始めているのか?
バカな、沙夜と暮らし始めてから高々四日だ。マリア先生だって、状況が変わってから頭が慣れるまでには、時間がかかる、みたいなことを言っていた気がする。
それに、何度も言うが、僕は沙夜に心を許しているわけではない。もちろん性的な意識が芽生えたということもない。彼女は、いてもいなくても“どちらでもいい存在”なのだ。止む終えなく家に迎えたわけだし、僕は彼女に一切の興味はない。そもそも僕はあの時、
――『まあ、とりあえず、少しの間なら、……ほーんの少しの間なら、うちにいても……いいぞ』
と言ったのだ。永続的に主になるとは一言も口にしていない。あげ足を取るような卑屈な発想だけれど、あの時、僕は勢いに押されて仕方なく承諾したのだ。
沙夜がこの先どうなろうが一向にかまわない。だから彼女の身に異変が起きようが、気に病む必要なんてない。そう、大して仲良くのないルームメイトのような、僕らはそれぐらいの殺伐とした距離感でいるべきだ。性別の違いと、品種の違いがことをややこしくしているに過ぎない。
僕は妖力を与えて、沙夜からの見返りは求めない。その代わり、沙夜は僕に、僕は沙夜に、深くまで介入しない。それが僕らしい行動であり判断だ。心配する必要なんてない。
しかし、そんな心とは裏腹に、気が付いた時には、僕は駆け足になっていた。いや、これは、早く暖房の着いた自室に行きたいためであって、彼女が心配だからという理由ではない。そんな不毛な言い訳を脳中で繰り返す。今日は世界史と現国の散々な結果が返ってきたけれど、そのことなど、どうでもよく感じていた。――決して現実逃避とかではなく。
「ただいま」
自室のドアを開けて、僕は二度目の『ただいま』を言った。玄関で一度、自室に入る時、一度。まるで所帯を持ったような気分になり、新鮮な気持ちにさせられた。京子さんはまだ帰ってきていないようで、第一声は見事に空振りしたのだが。
ドアを開けたすぐ先の所に、カーペットにしゃがみ込んだ沙夜の背中があった。頭に垂れ下がっているツインテールが彼女の座高よりも高く、垂れ下がりそこねた髪が、床で蛇のようにとぐろを巻いている。
「おかえりなさい! ご主人様、遅いですよ!」
沙夜は僕がドアを開けるのを確認して、顔だけをこちらに向けた。そして、不服そうに眉をひそめて、こちらに這いよってくる。彼女はさも不機嫌ですと主張するように唇を尖らせていた。
「どうして、僕がお前のために、急がなくちゃ、いけないんだ」
と言いつつも、肩で息をしている僕。
「べ、別にいいですよー。どーせ私はご主人様にとって、歯牙にもかけない憑きものですから」
僕の配慮を一顧だにしないで、悪態をつく沙夜。随分といじけた態度だ。彼女の物言いが癪に障ったが、反面、思ったよりか元気そうで安心した。肩すかしを食ったような脱力感が身体を襲う。
「お前ってそんな自分を卑下するような憑きものだったか?」
安堵の息を漏らしながら、僕は暖房を入れるべくリモコンを探した。
と同時に目を張ることとなった。
「な……なななな…………なんだよこれッ!」
自室を見渡して、僕は愕然とする。なんと件の禁断の書物が、ベッドの上、カーペット上、机上に、到る所に、無造作に散らばっていたのだ。表紙が閉じられているものはまだマシだ。開かれたまま放置されているものもあり、様々なジャンルのものが視界にちらついた。多分、このぐらいの守備範囲の広さは、男子高校生には普通のことだろう。そう思いながらも、こうしてしげしげと見せつけられると、自分自身に虫唾が走るものだ。
「おいおい! どんな嫌がらせだよ! 天然ポルターガイストかッ!! 僕に憾みでもあるのかよ!!」
「た、退屈だった……の……です………………すみません」
沙夜は、虫の鳴くような声で申し開きをする。
「それにしても、これは、いくらなんでも散らかしすぎだろう。魔方陣とか風水とかじゃないんだから……。悪魔でも召喚するつもりだったのか?」
「あははは、ご主人様。悪魔なんてこの世にいませんよ! いるのは悪魔憑きという憑きものだけです!」
忌々しいこの小娘は腹を抱えて笑っている。この際、笑われたことはどうでもいいが、その本の上で転げるのはやめていただきたい。色々と抵抗がある。
「うるさい! 退屈だったから本を開くことには問題ない。散らかしたこともとやかく言わん。こんな本に関心を示していること自体が問題だ。さかってんのか、この憑きものめ。あーあー、京子さんに見られたらなんて思われるか――」
沙夜を叱りつけながら、一歩部屋に踏み出した時だった。
突然、視界が揺れた。
頭を真横から金槌で殴られたような、激痛が走る。
「あでッ! いたッ!! いっててッ!」
「ご、ご主人様!?」
「いや、平気だ。少し頭痛がしただけ……」
頭を押さえながら、沙夜から受けた説明のひとつを思い出した。すっかり失念していた。今僕の身に鈍痛が襲った理由は、沙夜の身体と僕の影が結合し、半憑依状態になったからだ。
しばらく妖力を供給していないと、憑きものの妖力がすり減ってしまう。そうなった場合、消費した分の妖力を急速に回復させようとすると、憑きもの筋の身体に大きな負担がかかる。
沙夜と出会った時に味わった、雪崩のような、津波のような、暴風のような、荒れ狂う激痛の正体は、そういうわけだったのだ。
妖力は、人間の根底に眠る力であるといってもいい。その力は、湧きあがる泉のように、常に体内で生成されてはいるものの、急激に吸い取られるとなれば、それなりに身体に負担がかかってしまう。
また、ごくまれに妖力を全くもたずして生活している人間もいるそうだけれど、それはそれで問題はない。昔から妖力を持っていた者は、妖力なしでは生きていけないし、妖力を持たずに生活していた者は、妖力を持たない暮らしに身体が順応される。それだけのことなのだ。進化論に似ているな、と僕は思う。現代っ子が携帯を手放せない傾向とよく似ている、とも思った。
ここからは、ひとつの技術として教わったことだが、憑きもの筋が持つ妖力を憑きものに注ぎ込むことによって、憑きものに凄まじい攻撃を繰り出させたり、憑きものが負った傷を回復させたりできるのだそうだ。この力を、憑きもの筋から憑きものまでの妖力の道筋という意味から、道と呼ぶ。
――らしいのだが、そこら辺の説明を僕はよく聞いていなかった。憑きものの世界に精通している聡明な人間から見たら、宝の持ち腐れのように思えてしまうだろうけど、僕は沙夜をむやみやたらに使役したりしない。だから、聞いても無益な情報だと感じたのだ。
「すみません! すみません! 今片付けますのでっ!」
散らかした雑誌を慌てて片付ける少女を見て、説教する気にはなれなかった。安心感、焦燥感、嫌悪感、悲壮感。さまざまな感情が入り混じった末、怒りよりも疲れがどっとこみあげてきたのだ。無気力的にベッドに横になった。
「まぁ、いいよ。……それより何事もなかったか?」
「え? と言いますと?」
会話が要領を得ない。
「今朝、あれだけ騒いでいたの忘れたのかよ。半日も妖力を摂取してないとまずいんじゃなかったのか? それとも、あれはその場を盛り上げるための裏設定だったのかよ」
「あは、もしかして心配してくださっていたのですか?」
「そりゃ、少しぐらいは……」
「ご主人様。お気持ちは嬉しいですが、それは愚行です。愚かな行為です」
警察が不良学生を指導する時のような、抑揚のない口調だった。
「なんでだよ……。心配しろって言っていたのお前だろ」
なんとなくそう言われるような気がしていた。隙を見せると、この忌々しい憑きものは僕のことをコケにしたがるのだ。理不尽な罵言に、走って帰ったことを猛烈に後悔させられた。意味もなく沙夜を見つめていると、沙夜は僕の視線に気づいて、
「あ。えへへへへ。もしかしてご主人様。私に恋しちゃいました? だから、心を痛めるほど心配してくださったのですね」
どうしようもない憑きものは、僕の心配をものの見事に一蹴するような、どうしようもない言動ばかりをする。
「断じて違う。早く片付けろ。本気で寺に突き出すぞ」
冷たく言い放つと、沙夜はぷくーっと頬を膨らませた。
「ご主人様は思わせぶりが過ぎますよ。多種多様な方法で女性たちを翻弄して。まるでミ●ズ千匹です、はい。あ、ちなみにこれは昨日覚えた単語です」
「意味が違うッ! どこで覚えてくるんだそんな単語! というか、アダルト用語を平気で日常会話に持ち寄るなッ!! 憑きもののくせに男を意識するなんて百年早いッ!!」
「むぅー。またバカにしてますねっ!」
いや、少しぐらい性を意識してほしい。そして己の異端さに気が付いて、自重して欲しい。沙夜は色々と知らなすぎる。僕を男だと思っていないのか? たまたま僕が小心者なだけで、男ってのは元来野蛮な生き物だぞ? 彼女はどうして、ここまで僕に安心できるのだろう。この小娘は、今までどんな教育を受けてきたんだ。
そういえば――。淡々と考える。僕の元へ来る前、彼女はどこにいたんだろう――と。沙夜について、まだまだ知らないことがあった。しかし、この無垢な少女を見ていると、問い詰める気持ちも憚られる。それに、なぜか聞いてはならない気がした。
沙夜の素性や、今までの経緯などを放棄しようと、ばっさり割り切れるわけがなく、今後の生活が本格的に思いやられる。憑きものの一覧表みたいなものがあればいいのに……。残念ながら、市販されていたとしても、それは正しい情報ではないだろう。バイト面接の時に履歴書を持っていかねばならない意味が、身に染みてわかったような気がした。
また半面で、ここまで順調に同居生活を続けていられる自分の誠実さに感心していた。毎日のように彼女の言動に、どぎまぎさせられてはいる。その中で、なんとか理性を保って生活しているのだ。この同居生活は綱渡りのようなものであって、いつ崩落するか知れたものではない。
それに、僕は――。
不可抗力とはいえ、沙夜と口づけをかわしている。
不可抗力とはいえ、彼女の裸も見せつけられた。
…………。
……あれ? これは結構濃厚な――。
「いや、まさか、そんな……、そんなことって……」
視界が眩んだ。非常に悶々《もんもん》とさせられる。沙夜に性的な意識を持ったことがないとか、なんだかんだ言いながらも、着々とイベントをこなしているのだ。気が付いた途端、僕はぞっとした。
邪念をかき消すように、ベッドの上でのたうちまわった。沙夜は僕の狂乱を気にし始めたようで心配げに見つめた後、僕を追いかけるように彼女もベッドにのっかった。
「どうかなさいましたか、ご主人様?」
「うぁ! な、ななな、なんでもない」
ベッド上で膝を立てて座る沙夜の身体は、手を伸ばさずとも触れられる距離にあり、どちらかが少し体勢を崩しただけで、なにかのきっかけで、お互いの距離がゼロになる。柔らかい唇の感触が再三蘇る。沙夜特有のかぐわしい匂いが鼻腔奥深くまで刺激する。なんだ……、なんだよ、これ。
僕は自分の胸に手をやりながら、沙夜から目をそらしていた。僕は沙夜のことを異性として意識してしまっているのか、そんな仮定が脳中に生じた。心臓が張り裂けそうだ。
異性として意識? そんなわけがない。
どうして心臓が高鳴ることがある。僕は沙夜のことをなんとも思っていないから、別に彼女がそばに来ようが、かまわないはずだ。沙夜も僕のことを主人であるとしか思っていない。それは、あくまでも、憑きもの筋という意味での主人だ。
ならば僕も、沙夜を女の子として意識してはいけない。いくら人間の姿を現しているとはいえ、彼女は憑きもの。全く違う動物としてみるべきだ。そうだ、違う動物として置き換えれば、多少なりとも意識の変換が可能かもしれない。たとえば、この間、体育の時間に目撃した犬のようなものだと思えば――。
僕は固く目を閉じて沙夜の姿を視界から消し去った。そして、そのまま瞑想した。菩薩の心を以て、慈悲深き人間になるのだ。
「沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬。沙夜は犬」
「ご主人様……。どういうつもりかは私には見当がつきませんが、憑きものながらに、非人道な呪文が聞こえてくるのですが……」
「そうだ! 沙夜は犬だ!」
「なんかとんでもない答えに帰結していませんっ!?」
これからは沙夜を犬と考えて暮らそう。飼い犬と口づけする主人だっているだろうし、服を着せたり、脱がせたりすることだってある。そんなことは愛犬家にとっては、日常茶飯事だ。散歩に連れて行くのも普通。一緒に歩くのも普通。餌を与えるという表現も普通。犬にならば、なにをされたって――。
「たとえ、ぺろぺろされたってかまわない!」
「は? え、はぁ……。それは勘弁してもらいたいです、はい。ご主人様、お気を確かに」
沙夜は唇軽く舐めるようにちょろちょろと舌を出しながら、重心をかかとの方へ下げた。気が付けば、あの沙夜が僕の言葉に引いていたのである。あの沙夜が――。
途端に僕の頭が、とけるように蒸発しそうになった。暴走してしまった僕の頭は、ますます迷走し、混乱することになる。なんでこいつといると、こんなに心が惑わされるんだ。今朝から調子が狂いっぱなしだ。
そんな僕の動揺っぷりを目撃した沙夜は、仲間を見つけたカモのような挙動をして、嬉しそうに笑った。
「ご主人様、人のことをバカにする割に、ご主人様も結構な変態さんですよねっ」
「う、うるさい!! この痴女憑きめッ!!」
「ちじょ? ちじょって、なんのことです? 知女ってことですか? あはは、博学才穎な私を褒めてくださっているんですね! ありがとうございます」
「よし、健気なお前に、これをプレゼントしよう。意味を調べて、戦慄しろ、バカたれ」
深々と下げる沙夜の頭の上に、叩き付けるように広辞苑を置いた。痴女という言葉がはたして載っているのかは知らないが、一般教養を付けてもらいたいという願いを込めてこれを贈ろう。
この日はまだ、せせら笑いをしながら冗談を言えるぐらいの余裕があった。そんな僕らの生活に、さらなる異変が起きたのは、翌日の水曜日のことだった。




