#10 葛藤と決意
「おはよ……ございます……」
翌朝、沙夜の体調が極端に悪かった。青白いとかではなく、完熟リンゴのように顔が赤い。もともと憑きものという存在でありながら、人間よりも血色がいい少女の顔に、これでもかと朱を注ぎ込んだ、まさにそんな感じだ。
「なんかお前、色彩バグってないか? 2Pカラーみたいになってるぞ」
おかしい、とは一目でわかった。
「ふぇ、……にぴぃ? それってなんのことです?」
「お、おい動くなって」
始めは寝不足なのかもしれない、と考えたが、僕らは一日ごとにベッド番を交代することにしてあって、前夜のベッド番は沙夜だった。眠っていなかった、という可能性はありえない。夜中、彼女のようすをうかがった時、沙夜の寝顔は、遊び疲れた幼い子供のように安らいでいて、小さな寝息をたてていた。むかつく程の熟睡ぶりだった。
主人を差し置いて、先に悠然と眠りにつく憑きものがどこにいるか、と怒鳴りたかったが、夜中であるためにやめておいた。とにかく、彼女が寝不足であるという線はない。
ちなみに、沙夜がベッドを使う日、僕はカーペット上で薄い毛布を寝袋のように巻いて眠ることとなる。なぜ家主ならぬ部屋主である自分が、遠慮しなくてはいけないのだろうか。かといって、影の中で寝るように指示をすると、わーわーとごねだすので、押しに弱い僕は結局、甘やかしてしまうのだった。主客転倒とは、まさにこのことである。
どうして沙夜の顔色が悪いんだ? いや、それ以上に、いつもはべらべらと多いはずの沙夜の口数が、極端に少なかった。涙が溜まったように目が潤んでいて、息遣いが不規則的だ。これではまるで――。
「風邪でも引いたのかよ?」
人間と同様に憑きものも風邪を引くのだろう、と僕は適当に納得した。不思議がる必要などない。動物全般が風邪には抗えないわけであり、憑きものも、それらと同様の生き物であると説明を受けている。なので、風邪を引いてもなんら不思議なことはない。むしろ、それが道理だ。
しかし、沙夜は僕が立てた仮説をばっさり否定した。
「風邪、こほ、では、こほこほ、ないと思います、はい」
「別に強がらなくていいから。どう考えたって風邪だろ」
「違いますよ、こほこほ、私のことは構わずご主人様は学校へ行ってください、こほ」
否定しているが、明らかに風邪だろう、と見当をつけて、彼女の強情さに呆れながら話を先に進めようとした。大人しくしていた方が、愛嬌があるような気がしたのは、口にしない方がいいだろう。
さて、どうするべきか。憑きものが風邪を引いたとなれば、人間と同じように薬を与えてやればいいのだろうか。でも、なんの薬だ?
もちろん一般の医者に行くわけにはいかないし、憑きものを受け持てるような闇医者を僕は知らない。街中を探せば見つかるのかもしれないけど、もうすでに、テレビの占いが始まっている。学校に行かねばならない時間だ。もっとも、仮に霊、妖怪の診察おこないます、などと大々的に看板立てて営業しているような病院を見つけたとしても、そこで働く医者は、闇医者でなくやぶ医者と呼ぶのだろうが。
「憑きものが風邪引いた場合ってどうやって治すんだ? というかお前、薬は食べたことあるか?」
「風邪じゃ、ないです、はい、こほこほ。薬、なんていりません」
「わかったから、安静にしてなって」
とにもかくにも、まずは彼女の体温を計ろうと、邪な気持ちを全て排斥して、沙夜の額に触れようとした。多少なりとも緊張したが、平常心を装って小さな額に向けて、右手を伸ばす。しかし、額に手が触れる寸前のところで、
「だから、違うって言ってるじゃないですかッ!!」
弾き返された。物凄い剣幕で僕の手を強く払ったのだ。
「……え?」
異常なまでの拒絶反応に、僕は全身を硬直させていた。正直、かなりびっくりしている。一瞬、頭が真っ白になったぐらいだ。まるで、憑きもの相手に油断しているんじゃない、そんな戒めを告げられた気分にさせられる。数秒遅れてから手の裏にじんと痛みが広がった。
沙夜はしばらく表情を固めていたけれど、急速に青白くさせて、頭を下げた。勢いよく、それでいて、大仰に身体を曲げるものだから、首が折れてしまったのかと思い、ぎょっとした。
「す、すみません……」
「いや、いいけど……」
確かに先の行為は、なれなれしすぎではあった。――が、キスしてくれと平気で頼む少女に、これほどまでに拒まれる理由がわからない。ましてや、裸体を見せつけてくるような憑きものだぞ。額を触られて、恥ずかしがるほど可愛らしい性格ではないはずだ。
「……」
「ごほ……」
なんだこれ、倦怠期のカップルかよ。つい先ほどまでは和やかだった場が、険悪な雰囲気に一変したということは言うまでもないだろう。
ともかく、このままではらちが明かない。僕は四角張った表情を懸命にやわらげながら、ベッドに座る沙夜に視線を合わせた。
「風邪じゃないならどうしてそんなに体調が悪そうなんだよ? 顔が赤い理由も僕にはわからない」
「きっと、妖力を定期的に摂取していなかったので、体調を崩してしまっただけだ、と思います、こほこほ」
それを風邪と呼ぶのではないだろうか。そんな思考が巡ったが、あえて、ここは口をつぐんだ。下手の考え休むに似たり、だ。憑きものの知識に、無知で愚鈍な僕は、口出ししない方が賢明だ、と判断する。沙夜の言葉を待つことにした。
「こほこほ、その……憑きものというのは、繊細な生き物で……、妖力の有無で体調が大きく変化するんです……こほこほ」
「僕が悪いって言うのか」
「い、いえ、そういうわけではないのですが、はい」
まるで主の僕に責任があるとでも言いたげだ。しかし、そんなことは知らない。こんな話は持ち出したくないが、面倒を見てやっているのは僕であって、感謝の言葉ひとつあってもいいぐらいだ。幼い子供なわけじゃあるまいし、自分の風邪ぐらい自分で始末して欲しい。沙夜の発言で心の中に、もやもやとしたわだかまりが生じた。
「だからさ、お前は僕にどうしてもらいたいんだ?」
ひょっとすれば、すんなりと、学校を休んで看病してくれ、と頼んで欲しかったのかもしれない。僕は無理に気を遣われたり、回りくどい言い回しをされたりするのは、あまり好きではない。
問いかけを受けて、沙夜はバツが悪そうに目を伏せた。なにかぶつぶつと呟いた後、僕に顔を向ける。珍しく真剣な顔つきをしているので、なにを言うのかと思いきや、
「キ……キスしてください!」
「……はぁ」
色々な意味で落胆させられた。こぶしサイズの溜め息が、僕の口からぼっと飛び出した。息が白く宙に溶けていく光景が、目の端にちらついた。この小娘の考えは、結局のところ『口付け』という行為に結び付くのか。
いつも通りの手慣れた対応で、ばっさりと断ろうと僕は口を開いた。しかし、
「キスしてください!」
「なッ!?」
今日の沙夜はひたすらに強引だった。俊敏な動きで両手を伸ばして、僕の両肩の動きを牛耳り、顔を接近させる。あまりのできごとに、悲鳴を上げそうになった。
おいおいおいおい。
ぼやーと霞がかったように頭の中が白くなる。再三再四、思い出してしまったのだ、沙夜の唇の感触を――。
僕が変な気分になる要因はそれだけではない。ぐっと距離を縮めた沙夜の顔は、体調不良のせいか、いつにもまして色っぽかった。顔がほんのりと火照っていて、息遣いが荒い。率直かつ下賤な言い回しをするならば、ひたすらに――エロかった。
貞操の危機を感じて、慌てるように僕が一歩引き下がると、沙夜もベッドから身を乗り出して、僕をタンス際まで押し付けるように寄ってきた。相撲でいうところの、がぶり寄りとよく似た動きである。
余計な思考を働かせているうちに、タンスと沙夜に身体を挟まれる体勢になっていた。いつもよりも高い彼女の体温が、なすがままの僕の身体にのしかかる。沙夜の生暖かい太ももが不意に僕の右手に触れた。艶めかしい素肌に、度々漏れる、とろけるような吐息。首筋に走るやわらかい髪の感触。ルクリアの香り。
なんだよ、この展開は、朝っぱらから夜這いか!
夜でもないし、這ってもないけど。
「お、おいっ! こら! なにを考えているんだ!!」
「これっきりにしますので……」
「そんな言葉を信じられるか! てか、これっきりもくそもないだろ!」
「妥協してください」
「ひ、開き直るな! おいって!」
もがいても、もがいても、ほどけない。むしろ、もがけばもがくほど、沙夜に全身を絡め取られる気がした。
「ご、ご主人様……、キスを……」
ぴたりと密着する沙夜の鼓動が僕に伝わる。そのまま伝播するように僕の全身が痙攣するように波打った。その姿勢のまま、沙夜は首を伸ばして顔を近づける。唇が伸びる。互いの唇が重なる――寸前のところで――
「ふざけんなッ! はなせッ!」
全身の力を奮起させ、沙夜の頭を抑え込むようにして、身体を思いきり突っぱねた。強く押し出すと、彼女は力なくベッドに後転した。だからといって、ダメージがあるわけではなく、ベッドの布団に不恰好な姿勢になって、荒野の草のように転がった。獲物を見つけた肉食獣のごとく、こちらを睨みつけている。
「なんて顔してんだ、この強姦女ッ! ついに本性を現したなッ!」
「ごう!? ち、違います……。キ、キスしてくださったら、全て解決する気がしたんです」
「するわけないだろッ! キス魔めッ!!」
学ランの最後のボタンをかけると、なりふり構わず部屋を出た。扉を閉めて、廊下でほっと一息つくと、いつも以上に胸が上下していることに気が付いた。心臓が暴漢のごとく荒れ狂っている。意味がわからない。どうして、あいつは口づけにこだわるんだ。
結局この日も、沙夜を家に置き去りにして、学校へ向かった。茶番劇に無駄な時間を要したことが災いし、家を出るのが遅れたため、登校中、奈緒に散々、油を搾られることとなる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
耳鳴りのように聞こえる雨音が、僕の鼓膜を揺らす。外の光景を呆然と眺めて、少し濡れた学ランの裾を払った。適当に文具を手に取って、弄びながら、雨がやむのを待つ。
学校からの帰り道、にわか雨に襲われた。傘を持っていなかった僕は、近くにあった文房具店に駆け込んで、雨がやむまで時間を潰すことにしたのだった。西の空は明るいし、きっと、すぐやむことだろう。
シャープペンシルを握っていると、初老の店員にえらく睨まれていることに気が付いた。彼の頭上には、『ダメ、万引き』と書かれたポスターが張り出されている。それが店員の吹き出しになっているように見えて、店員の顔と不釣り合いなコミカルさに噴き出しそうになった。
学生服というのは、どうも信頼に欠けるらしい。真面目にルールを守っていても、軽犯罪を犯すような生徒と一緒くたにされてしまうものである。ゲームで言えば、制服という防寒服は、『幸運-20』が付属した呪い系アイテムに値すると思う。きっとこの店員からしてみれば、昨日、授業をさぼってランデブーしていたカップルと僕は、見た目上、大差がないのだろうな。『最近の若者』という言葉を、悪口以外で聞いたことがない。
しばらくすると、予想通り、雨がぴしゃりと降りやんで太陽が顔を出した。どうしてもそのまま帰るのは、プライド的なものが傷つけられる気がして、手にしていたシャープペンシルを仕方なく購入する。金額を確認せずに、帳場に持っていったため、思った以上に高値だったことに驚かされた。結局、僕が店を出ていくまで店員は仏頂面のままだった。挑戦的な態度をとって、品物を買わせるというのが、この店の商法なのかもしれない。
帰り道。苛立たしいほどの快晴。まるで、空が身の潔白を主張するように、『晴れてますが、なにか?』と、雨を浴びせた責任を放棄して、開き直っている気さえした。そんな態度は憎々しいのだが、店から外に出た瞬間、あっさりと許せてしまった。
雨上がりの空に、鮮やかな虹が架かっていたからだ。
全くもって、姑息な手を使ってくれたものだ。空がお詫びの品として虹を持ってきたのだ、くだらない空想をした。それにしても、ここまで大きく立派な虹を初めて見た。自然の神秘を目撃して、ぐっと込み上げてくる感慨を覚えた。
遠方に架かる巨大な虹は、一種の怪奇現象に見える。虹の根本はどうなっているのだろう、と本気で考えてしまった。確か、根元などないと科学の時間に教わった気がするが、それを論理的に説明できる気もしない。自分が知らないことは、全て怪奇現象と称してしまってもいいだろう。他の人が解いた謎の答えを受け売りにするよりも、そっちの方が性に合っている。
この虹を見たら、沙夜はどんな風に喜ぶのだろうか、それとも、こんなことにいちいち感心する僕を、『愚かだ』とでも罵るのだろうか。
――沙夜は平気だろうか?
沙夜が自分で大丈夫だと言っていたのだから、深慮する必要はないのか。それとも、僕は楽観視していたが、憑きものの風邪ってのは、想像以上に深刻なのかもしれない。あの強情な憑きものが、単に意固地になっていただけなのか? 僕に迷惑をかけないようにと変な気を遣って……。
――「キ……キスしてください」
で、なんでキスなんだよ……!
いつのまにか、沙夜の顔を頭に描いていたことに、自分で当惑して、首を横に振った。そして、かわりに、ふとした疑問が頭に波立った。
――僕はどうして、あの少女を受け入れることにしたんだっけ?
雨で出来上がった水たまりの地面を子供が駆け回る。ぬかるんだ地面は、沼地のように足を奪い、そのくせ、ピカピカに磨いた廊下のように滑りやすい。眺めていると、案の定、やはり転んだ。前方から転ぶ光景は、決死の思いでホームベースに滑り込む高校球児を彷彿とさせる。僕がもう一度目をやった時には、母親が手を引いて、膝から下を泥だらけにして泣く子を宥めていた。よほど子供が可愛いのか、母親はおたおたと酷く慌てていた。
しばらくその光景に視線を向けていたが、母親と目があった気がして、僕もまた、おたおたと慌てて、その場を後にした。数メートル歩いてから、もう一度熟考する。
――その理由は、沙夜が可愛らしい少女のような見た目をしているから?
――だから、僕は彼女に愛着を持ち始めているのか?
――救いの手を指し延ばすように?
――そんなバカなことがあるものかよ。
気を抜けば、声になりそうな自問自答だ。弱卒な精神が僕の心を掻き乱す。『あの憑きものとの繋がりはないはずだ。引き下がるなら今しかない。それはあいつを見捨てるわけじゃない』そのように、もう一人の僕が大口を開けて、訴えている。
そんなことは言われなくたって気が付いていた。僕と沙夜、“双方が共に不幸にならない方法”があることなど――。
自然に足早になる。心拍数が高くなるのを全身で感じた。身体の動きと連動するかのごとく、思考は加速する。
世の中には、ペットは飼い主が責任を持って飼え、という言葉がある。責任をとれないのならば、“逃がす”という手段だってあるのだ。一見、残忍非道な行為のように思えるが、それが時には金策だというケースだってあるはずだ。
今なら、まだ間に合う。いや、今だからこそできることではないか。沙夜をうちから追い出せばいい。そしたら沙夜も沙夜で、また新しいご主人様を見つけるだろう。その選択は許される行為であるし、沙夜にとって一番の選択なのかもしれない。他人に無頓着な僕なんかと過ごすよりも、よっぽどいいことだろう。
このまま生活していたら、本当に引き返せなくなる、そんな予兆を感じていた。心の根底に潜む藤堂敦彦が叫んでいる。『思い直せ! そもそもお前は、他人に対して、関心を示すような人間じゃないはずだ! なによりも、お前にとっても、あの憑きものにとっても最善の道なのだ!』
――ペット?
いや、違う! 僕はなにを考えているんだ!
こんなの自分の都合を並べただけじゃないか!
沙夜にそんな扱いをしていいはずがない!
「ああ、くそ!」
僕はわしゃわしゃと髪をかきむしった後、激しくこうべを振った。たったそれだけの所作だけで、まるで、雨上がりの空に太陽が顔を出すように、虹を作り出すように、頭が冴え冴えとした。心は落ち着いている。
「学ランを着ている以上、どうせ、“最近の若者”に見られるんだったら、とことん見られてみるか」
じっくりと深呼吸をし、覚悟を決めた。
十年間守り続けてきた、皆勤賞を捨てる覚悟を――。




