ルルの本気
閉店後の《深淵の鍋》は、いつもより静かだった。
ガルドがカウンターで酒を飲んでいると、ルルが厨房の椅子にちょこんと座って、タルトの残りを頰張っていた。
エレナは少し離れた場所で帳簿をまとめている。
ルルがふと、明るい声で言った。
「ねえ、ガルドおじちゃん。
ルルが毎日ここに来て、手伝ってるの……迷惑?」
ガルドはジョッキを置いて、髭を撫でながら答えた。
「正直、最初は迷惑だと思ったよ。
でも、お前が来てから常連のおじさんたちの笑顔が増えた。
……それに、店が少し明るくなった気もする」
ルルはにこにこしながら、しかし少しだけ視線を落とした。
「ルル、嬉しいよ。
みんなが笑ってくれると、ルルもなんだか……温かくなる」
エレナが無表情のまま、静かに口を挟んだ。
「ルル。あなたは本当に、ただの手伝いしたいだけの幼女ですか?」
ルルはエレナの方を向いて、いつもの可愛らしい笑顔を浮かべた。
「どうしてそんなこと聞くの、エレナお姉ちゃん?」
エレナは淡々と続けた。
「あなたの動きには、明らかに幼児とは思えない正確さと魔力制御があります。
また、常連客、特に中年男性に対して異常なまでの好感度を集めている。
……まるで、意図的にそうしているように見えます」
ルルはくすくすと笑った。
その笑い声は可愛らしいのに、どこか大人びた響きがあった。
「ふふっ、エレナお姉ちゃん、鋭いね。
でも、ルルはただ……このお店が好きなんだよ。
ガルドおじちゃんの料理も、エレナお姉ちゃんの冷たいところが好き。
おじさんたちが『ルルちゃん可愛い』って言ってくれるのも、なんだか心地いいの」
彼女はパフェグラスを指で軽く叩きながら、ぽつりと言った。
「ルル、昔は……とても静かな場所にいたんだ。
そこでは、誰も笑わなくて、誰も褒めてくれなくて……
ただ、じっとしていることしかできなかった。
だから、この店に来て、みんなが騒いで、笑って、ルルを必要としてくれるのが……
すごく、すごく楽しいの」
ガルドが真剣な顔で聞いた。
「その『静かな場所』って、どこなんだ?」
ルルは笑顔のまま、しかし少しだけ目を細めて答えた。
「秘密だよ。
今は言えない。……まだ、言っちゃいけないと思うから」
その瞬間、ルルの周囲の空気が一瞬だけ歪んだような気がした。
銀髪がわずかに光を反射し、瞳の奥に深い青紫色の光がちらりと見えた。
エレナの表情がわずかに硬くなった。
ルルはすぐにいつもの無邪気な笑顔に戻り、椅子から飛び降りた。
「でも大丈夫!
ルルは、このお店を壊したりしないよ。
ただ……みんなと一緒にいたいだけ。
エレナお姉ちゃんも、ガルドおじちゃんも、赤い牙のお兄ちゃんお姉ちゃんも、
常連のおじさんたちも……みんな大好きだから」
彼女はくるりと回って、エプロンの裾を翻した。
「だから、これからもルル、手伝わせてね?
……断らないよね?」
最後の言葉は可愛らしく聞こえたが、どこか有無を言わせない響きがあった。
ガルドは苦笑しながら頷いた。
「……ああ、好きにしろ」
エレナは無表情のまま、静かに言った。
「了承します。ただし、店に損害が出た場合は、相応の対価を請求します」
ルルは満足そうに笑った。
「やったー! 約束だよ!」
ルルが裏口に向かって歩き出す直前、
彼女の後ろ姿が一瞬だけ、銀色の光を帯びたように見えた。
ガルドは小さく呟いた。
「……あの子、本当にただの迷子の幼女なのか?」
エレナは帳簿に視線を落としたまま、淡々と言った。
「現時点では不明です。
ただ……彼女がいる限り、この店の『予測不能指数』は大幅に上昇しています」
ルルは裏口の扉を開けながら、振り返って明るく手を振った。
「また明日ね! ルル、みんなのことが大好きだよー!」
その笑顔は無邪気そのものだったが、
ガルドとエレナは、なぜか同時に背筋に冷たいものを感じていた。
店に残された二人は、しばらく無言でルルの去った扉を見つめていた。




