美濃は異世界にもある
シュタインベルク男爵領。オーデンヴァルトの北に位置する山がちな領地。
切り立った山の中腹に築かれた堅牢な城が、領地全体を見下ろしている。城壁は厚く、城門は狭く、正面からの攻略はおよそ不可能と言ってよい天然の要塞。
だが、その城の中では、静かな腐敗が進んでいた。
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エルヴィン・フォン・シュタインベルクは、城の廊下を歩きながら拳を握り締めていた。
二十五歳。黒髪を短く整え、知的な灰色の目を持つ青年。シュタインベルク男爵の遠縁にあたり、筆頭家臣として領内の実務を一手に引き受けている。
今しがた、男爵ディートリヒの前を退出してきたところだった。
エルヴィンの進言は、いつものように退けられた。税を下げてほしい。領民が逃散している。鉱山の労働者が足りない。どれも合理的な提言だったが、男爵の答えは常に同じだった。
「民が逃げるなら、逃げられぬようにすればよい。逆らう者は見せしめにせよ」
エルヴィンは歯を食いしばった。
主君への忠義。それは騎士として当然のことだ。だが、その忠義の先に何があるのか。民を苦しめ、才ある者を遠ざけ、力だけで支配する統治。その先に待つのは、緩やかな滅亡以外の何物でもない。
南の方角に目を向ける。オーデンヴァルト。渓谷の戦いで名を轟かせた令嬢が治める領地。
噂は聞いている。税を下げ、自由市場を開き、身分を問わず有能な者を登用する。ここシュタインベルクとは、何もかもが正反対の統治。
「そんな理想が、本当に成り立つものなのか……」
エルヴィンは独り呟いた。
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ローザの手配は迅速だった。
シュタインベルク領に出入りする行商人に紛れて、密書がエルヴィンの手に届けられた。
「お会いしたい。場所と日時はそなたに任せる。――ノブナ・オーデンヴァルト」
短い手紙だった。だが、その一文にエルヴィンは息を呑んだ。
悪役令嬢と噂される辺境の令嬢。八百で三千を退けた戦術家。身分を問わず人を登用するという革新者。その人物から、直接の面会を求められた。
罠かもしれない。利用されるだけかもしれない。だが――。
エルヴィンは、自分の中で何かが動くのを感じた。このまま、朽ちゆく城に仕え続けるのか。それとも。
返事を書いた。
「お会いします」
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国境近くの小さな村の、目立たない旅籠。
ノブナは旅装束に身を包み、供はヘルムートのみ。護衛なしで敵地の目と鼻の先まで来るのは危険だが、ノブナは意に介さなかった。
「ノブナ様。せめてフリードリヒ殿に護衛を……」
「大勢で来れば目立つ。それに、護衛を連れて来る者に、人は本心を見せぬ」
旅籠の二階。薄暗い部屋に、フードを被った男が現れた。
フードを取ると、端正な顔立ちの青年が現れた。灰色の目が、警戒と好奇心を半々に湛えている。
「エルヴィン・フォン・シュタインベルクです」
「ノブナ・オーデンヴァルト。よく来てくれた」
エルヴィンは正面に座り、じっとノブナを見つめた。
銀髪の若い令嬢。噂ほどの威圧感はない。だが、あの紅い瞳に何か底知れないものがある。年齢にそぐわぬ、深い深い光。
「単刀直入に聞いてもよろしいですか」
「もちろん」
「なぜ私に会いたいと? シュタインベルクの軍事情報が欲しいなら、もっと安全な方法があったはずです」
「情報なら、ローザの商人たちから十分に得ている。私が欲しいのは情報ではない」
「では、何を」
「そなた自身だ、エルヴィン」
エルヴィンの目が見開かれた。
「ローザの報告によれば、シュタインベルクの実務を支えているのはそなただ。税の徴収、兵の訓練、領民との交渉。男爵は暴れるだけで、統治の実態はそなたが担っている」
「……否定はしません」
「そして、そなたは今の状況に苦しんでいる。主君への忠義と、領民への責任の間で」
エルヴィンは黙った。図星だった。
「私は、そなたに提案がある」
ノブナは身を乗り出した。
「オーデンヴァルトに来い。そなたの知略を、もっと意味のあることに使え」
「……それは、主君への裏切りを勧めていると」
「裏切りか忠義かは、そなた自身が決めることだ。だが、一つだけ聞きたい」
ノブナの紅い瞳が、真っ直ぐにエルヴィンを射抜いた。
「そなたが忠義を尽くしている主君は、そなたの忠義に値する人物か」
沈黙が落ちた。
エルヴィンの中で、長い間押し殺してきた感情が渦を巻いた。男爵は部下を使い潰し、民から搾り取り、諫言する者を罰する。そんな主君のために、自分はいったい何を守っているのか。
「……ノブナ様。あなたの領地では、本当に身分を問わず人を登用しているのですか」
「うむ。鉱夫頭のガルドは平民だ。家令のヘルも平民出身。私は能力のみで人を見る」
「農民が兵になれると」
「なれる。実際に、渓谷の戦いで戦ったのは元農民や商人の息子たちだ」
エルヴィンは目を閉じた。
身分ではなく能力で。暴力ではなく秩序で。搾取ではなく共栄で。
それは、エルヴィンがずっと夢見てきた統治の形そのものだった。
「もう一つ。あなたは何を目指しているのですか。オーデンヴァルト一領地で終わるつもりではないでしょう」
「天下布武」
ノブナは迷いなく言った。
「この大陸を一つにまとめる。争いをなくし、誰もが己の力で生きられる世を作る」
エルヴィンの灰色の瞳が揺れた。
大言壮語だ。普通なら笑い飛ばすところだ。だが、この目の前の令嬢は、すでに不可能を可能にしている。没落寸前の領地を再建し、大軍を寡兵で破り、帝国と対等な同盟を結んだ。
「……あなたの目指す世界を、見てみたい」
気づけば、そう口にしていた。
「そなた――」
「ただし、条件があります」
エルヴィンの目に、決意の光が灯った。
「私が動く以上、領民を巻き込む流血は最小限にしてください。シュタインベルクの民は、男爵の被害者です。彼らを踏みにじるような攻め方はしないと、約束していただきたい」
ノブナは微笑んだ。それは、心からの笑みだった。
「当然だ。民は財産であり、未来だ。無駄に傷つけるなど、もったいないにもほどがある」
「もったいない、ですか」
「そうだ。人の命は何よりも貴い。それを道具のように消費する者は、統治者の器ではない」
エルヴィンは深く頭を下げた。
「エルヴィン・フォン・シュタインベルク。あなたに従います」
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密会を終えて帰路につく馬車の中。
ヘルムートが心配そうに口を開いた。
「ノブナ様。エルヴィン殿を信用してよいのでしょうか。初対面で忠誠を誓うなど、些か早すぎるように思えます」
「用心深いのはよいことだ、ヘル。だが、あの男の目を見たか」
「目、ですか」
「理想を裏切り続けてきた者の、限界ぎりぎりの目だ。あの手の人間は、信じられる者に出会った時、全力で傾く」
ヘルムートは少し考えて、小さく頷いた。
「確かに……あの目は、かつての私にも似ていました。行き場のなかった頃の」
「そうだ。そなたがオーデンヴァルトに残ってくれた時と、同じだよ」
ノブナは窓の外を見た。シュタインベルクの山並みが遠ざかっていく。
「エルヴィンには時間を与えよ。内応の準備は、彼の判断に任せる。こちらが急かせば失敗する」
「承知しました。では、その間に我々は何を」
「ヴァルムントへの備えだ。ヴォルフが動く前に、外交で蓋をしなければならぬ」
ノブナの紅い瞳が西を向いた。あの宿敵は、今頃何を考えているだろうか。
「それと、ヘル」
「はい」
「エルヴィンのことは見守れ。有能な者ほど、己の理想にこだわる。それは美徳だが、時に危うさにもなる」
ヘルムートは、その言葉の意味を深くは考えなかった。
だが後に振り返って、この時のノブナの声に、かすかな憂いが混じっていたことを思い出すことになる。
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