本能寺の炎、悪役令嬢に転ず
炎が、すべてを呑み込もうとしていた。
天正十年六月二日。本能寺。
寺を囲む明智の軍勢、燃え盛る伽藍、崩れ落ちる梁。その只中で、織田信長は静かに目を閉じていた。
天下布武。
その旗印のもとに駆け抜けた四十九年の生涯が、炎の向こうに霞んでいく。
「是非も――なし」
それが、織田信長の最期の言葉となるはずだった。
――はずだった。
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意識が浮上する感覚があった。
水底から水面へ引き上げられるような、ゆるやかな覚醒。
まず気づいたのは、体が妙に軽いことだった。四十九年鍛え上げた武人の肉体ではない。華奢で、柔らかく、どこか頼りない。
目を開ける。
天蓋つきの寝台。絹のシーツ。窓から差し込む朝日に照らされた、西洋風の――いや、見たこともない様式の部屋。
「……なんだ、ここは」
声が出た。高い。女の声だ。
跳ね起きて、近くにあった姿見を覗き込む。
映っていたのは、銀色の長い髪と紅い瞳を持つ少女だった。年の頃は十七か。整った顔立ちに、どこか冷たい印象を与える美貌。
――これが、余か。
その瞬間、頭の中に膨大な情報が流れ込んできた。
断片的な映像。この世界の知識が、まるで誰かに教えられるかのように脳裏に浮かぶ。
剣と魔法の世界――エルドラント大陸。
乱立する諸国が覇権を争う、戦乱の時代。
その大陸の片隅にある辺境の伯爵領、オーデンヴァルト。
そしてこの体の持ち主は、ノブナ・オーデンヴァルト。ライゼン帝国の皇太子に婚約破棄され、領地を没収され、追放される運命にある――いわゆる「悪役令嬢」。
「悪役令嬢、か」
信長は鏡の中の自分を見つめながら、ゆっくりと口角を上げた。
「面白い」
運命だの筋書きだの、そんなものに従う気は毛頭ない。本能寺の炎すら恐れなかった男が、たかが定められた末路ごとき――。
控えめなノックの音が響いた。
「ノブナ様、お支度のお時間です。本日は帝都の舞踏会でございます」
扉の向こうから聞こえる、やや緊張した若い男の声。
流れ込んだ知識によれば、この声の主はヘルムート。オーデンヴァルト家の家令見習いで、平民出身ながら事務能力を買われて仕えている青年。
そして今夜の舞踏会こそが、皇太子クラウスが公衆の面前で婚約破棄を宣言する場――すべてが動き出す場面。
「よい。入れ」
「は、はい。失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、栗色の髪を短く整えた真面目そうな青年だった。手には衣装を抱えている。
ヘルムートは一瞬、主人の様子がいつもと違うことに気づいたようだった。ノブナの紅い瞳に宿る光が、昨日までとはまるで異質だったからだ。
「……ノブナ様? どこかお加減でも」
「いや。むしろ今日ほど気分のよい朝はない」
信長は――ノブナは、堂々と立ち上がった。
「支度をしよう。今宵は楽しくなりそうだ」
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帝都ライゼンハウプトの大舞踏会場。
数百の貴族が集うきらびやかな空間に、オーデンヴァルト伯爵令嬢ノブナの姿はあった。
深紅のドレスに銀髪を結い上げた姿は、否応なく視線を集める。だがその視線の多くは、好意的なものではなかった。
没落寸前の辺境伯爵家。傲慢で冷酷と評判の令嬢。まもなく皇太子に捨てられる哀れな女。
ひそひそと交わされる嘲りの声を、ノブナは正確に聞き取りながら、完全に無視していた。
――雑兵の囁きなど、聞くに値せぬ。
やがて、大広間の中央に金髪碧眼の青年が現れた。ライゼン帝国皇太子、クラウス・フォン・ライゼン。
クラウスの表情は硬かった。決意を固めた、しかしどこか後ろめたさを残した顔。
「ノブナ・オーデンヴァルト」
大広間に響く声。会場が静まり返る。
「私は本日、そなたとの婚約を破棄する」
ざわめき。予想されていたとはいえ、公衆の面前での宣言に会場がどよめく。
「そなたの数々の悪行――領地の財政破綻を放置した怠慢、他の令嬢への高圧的な態度、領民を顧みぬ傲慢。私はこれ以上、そのような者を伴侶とすることはできない」
貴族たちの視線が一斉にノブナに集まった。
泣き崩れるか。
激昂するか。
それとも、惨めに言い訳をするか。
誰もがそのいずれかを予想していた。
ノブナは、微笑んだ。
それは令嬢の慎ましい微笑みではなかった。戦場を前にした武将が浮かべるような、不敵で、堂々とした笑み。
「結構」
たった一言。会場が凍りついた。
「殿下のご決断、謹んでお受けいたします」
ノブナは優雅に一礼した。だが、その目は笑っていなかった。笑っていたのは、口元だけだ。
「むしろ感謝いたしましょう。これで私は自由の身。己の力で道を拓く機会を得ました」
「……は?」
クラウスの顔に、想定外の困惑が浮かぶ。
「重ねて申し上げます。ありがとうございます、殿下。この婚約破棄は、私にとって――」
一瞬、信長の地が出た。
「天の恵みであるな」
「……え?」
「――でございます、の意味ですわ。それでは殿下、ご機嫌よう」
ノブナはくるりと背を向けて歩き出した。その足取りには一片の未練もなく、むしろ戦場に向かう者の高揚すら感じられた。
会場は完全に静まり返っていた。泣くでも怒るでもなく、微笑みながら去っていく悪役令嬢。誰も、この展開を予想していなかった。
クラウスは呆然とその背中を見送ることしかできなかった。
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帝都を発つ馬車の中。
ノブナの向かいに座るヘルムートは、主人の変貌に戸惑いを隠せずにいた。
「ノブナ様。あの、本当によろしかったのですか。婚約破棄を、あのようにあっさりと……」
「ヘル」
「は、はい」
「オーデンヴァルト領の現状を教えよ。包み隠さず、すべてだ」
ヘルムートは目を瞬かせた。これまでのノブナ様は、領地の経営にまるで興味を示さなかったのに。
「え、ええと……正直に申し上げますと、かなり厳しい状況です。先代様の……その、浪費により財政は破綻寸前。重税に耐えかねて逃げ出す領民も増えております」
「うむ。それで、領地の強みは何だ」
「強み、ですか?」
「どんな土地にも、何かしらの利がある。地の利、物の利、人の利。何でもよい。申してみよ」
ヘルムートは驚きながらも、必死に考えて答えた。
「鉱山があります。鉄鉱石と銀が採れる山が。先代の時代に採掘が止まっておりますが、鉱脈自体はまだ生きているかと。それと……領地は東西の交易路の要衝に位置しております。商人たちが頻繁に通過する街道が」
「鉱山と街道か」
ノブナの紅い瞳が、暗い馬車の中で光った。
鉄。銀。交易路。
これは――使える。
「ヘル。領地に戻ったら、すぐに家臣を集めよ。全員だ」
「は、はい。何をなさるのですか?」
「決まっておろう」
ノブナは窓の外に広がる大陸の風景を見渡した。
この世界もまた、群雄が割拠する戦国の世。ならば、やることは一つ。
「天下を獲る」
「……て、天下、ですか?」
「そうだ。まずは領地の立て直しからだ。話はそれからよ」
ヘルムートは言葉を失った。
婚約破棄されたばかりの、没落寸前の辺境伯爵令嬢が。天下を獲ると言った。
正気ではない。そう思うべきだった。
だが――不思議と、この方ならば、と思わせる何かがあった。あの紅い瞳に宿る光。あの堂々とした佇まい。まるで、すでに天下を獲ったことがある者のような。
ノブナは窓の外を見つめながら、誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。
「面白い。この世界もまた、天下布武の舞台としては申し分ない」
本能寺で燃え尽きたはずの炎が、異世界の悪役令嬢の胸の内で、ふたたび燃え始めていた。
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