四、霧の向こう
「あの、すみません。起きてください」
天から降ってきた声で船頭は目を覚ました。顔にかぶせていた笠をどけると、まだあどけなさの残る青年の心配そうな顔が上から見下ろしていた。船頭は体を起こし、軽く伸びをした。
「よかった。ぴくりとも動かないから、もしや死んでいるのかと思いました」
「いや、昔の夢を見ていただけだ。お前はあっちの島へ行きたいのか?」
「はい。舟を出してもらえますか?」
「その前に確認しておくが、あの島がなんと呼ばれているのか知っているか?」
「帰らずの島でしょう? あそこへ行った者は二度と帰ってこないと聞きました」
「そうだ。俺も何度も島へ行っているが、あまり気持ちのいい場所ではないことぐらいしか知らない。それも、人によって感じ方は違うようだが」
「どんなところだろうと、行かなくちゃなりません。僕はある人の行方を追っているんです」
「恋人か、肉親か、それとも心底憎い相手か?」
「恩人です。どうしても会って伝えたいことがあるんです」
青年の目は真剣そのものだった。
船頭はため息をついた。
「島に行ったからといって会えるとは限らないぞ。生きているのか死んでいるのかさえわからないんだ。それでも行くというのか?」
青年は目を閉じ、ふうと小さく息を吐いた。
「はい」
「……よし、乗せてやる。だがその前に、櫂を見つけてきてくれないか。ここらに流れ着いているはずだから。俺はわけあって舟から離れられないんだ」
「わかりました」
青年は背負っていた荷物を降ろし、波打ち際を探して歩き始めた。新しい足跡ができては波と消えていく。若者はその光景を見ながら、青年が何とか心変わりすることを願った。
しかしほどなくして、青年は使いこまれた重厚な櫂を携えて戻ってきた。
「ありました。これでしょう?」
「……仕方ない。行くとするか」
船頭は笠をかぶり、重い腰を上げた。もやい綱をほどいて沖へと舟を出す。
今日の波は穏やかで、船出には打ってつけだった。
青年は嬉しそうにきらきらと輝く海面を見つめた。
「あまり乗り出さないほうがいい。ここらには巨大な人喰い魚がいるから」
青年は大人しく体をひっこめた。そして、今度は行く手の島を見つめた。
「一体、どんなところなのでしょうか」
「さあな」
船頭も水平線を見つめる。
「万が一戻ってくることがあれば教えてくれ」
青年はふっと表情を緩め、船頭を見上げた。そして、何かに気づいたように目を見開く。
「すみません。昔、物取りをして殴り殺されそうになっている浮浪児をかばったことがありませんか?」
船頭は櫂を操る手を止めた。
「もう十年以上も前のことですが……」
「人違いだろう。俺はそんな善人ではない」
「そうですか……」
「お前はそいつに会いに行きたいのか?」
「はい」
青年は真っすぐな目で船頭を見ている。
船頭は目を背けた。
「どうしても行くんだな」
「ええ。当然ですよ」
「では、俺も一緒に行こう」
「えっ、どういうことですか?」
船頭はあご紐をほどいて笠を取った。すると、彼の顔はいくぶん年を取ったように見えた。
「そろそろこの仕事にも飽きてきたということだ」
「よくわかりませんが……」
辺りに霧がたちこめる。青年はぶるっと身を震わせた。
「うっ、寒い……」
「耐えろ。もう少しの辛抱だ」
霧の向こうに何が見えるのか。男は武者震いした。かつてはただ怖ろしいと思っていた場所に、今はかすかな希望を見出していることが、自分でも不思議だった。
「ねえ、やっぱり、あの時助けてくれた人でしょう?」
「違うと言っているだろう」
小舟は漕ぎ手をなくしたまま、悠々と海上を流れていく。
濃い霧の中に、これまで送り届けてきた者たちの姿が浮かぶ。
もしかすると、この青年も霧が見せている幻ではないか。俺は未知の世界へ向かうための理由が欲しかったのではないか。だいたい、大勢の命を奪ってきた自分が、こんなところで命を助けた人物と再会するなど都合がよすぎる。
そんなことを考えていると、「へっくしょい」と大きなくしゃみが聞こえた。おかげで、この青年が幻だろうが本物だろうが、男はもうどうでもよくなってしまった。
「緊張感のないやつだな」
「すみません。寒くて」
やがて小舟は渡し場へと行き着き、二人は島に降り立った。
小舟がひとりでに向きを変え岸から離れていくのを見て、男は呆れたように笑った。
「行くか」
「はい!」
思いがけず旅の道連れを得た二人は、勇ましく霧の中へと消えていった。
そしてやはり、二度と帰ってくることはなかった。