三、笠と櫂
船頭はいったん言葉を切り、力強く櫂を漕いだ。小舟は左右にふらふらと揺れたが、やがてぴたりと一方向に定まった。小舟の舳先は、まっすぐに島の方角を指していた。
若者はぶるっと身を震わせた。急に寒くなってきたようだ。辺りにはうっすら霧が漂っていた。
「あんたはそれからずっと、舟を漕いでいるのか?」
「ええ。試しに岸で舟から降りようとしてみたことがあったんですが、先の男が話していた通り、三歩も歩かないうちに息が苦しくなって、慌てて戻りましたよ。こんな調子では食料の調達は釣りでもするしかないかと思ったんですが、巨大魚のせいなのか、食べられそうな魚は滅多にお目にかかれない。そうして飲まず食わずの日が続いたんですが、不思議なことに体はぴんぴんしている。男の話は本当だったのだと知りました。以来、数え切れぬほどの人を乗せ来る日も来る日も海岸と島を行き来しているというわけです。永遠の愛を誓った相手から逃れるために永遠に生き続けるなんて、ばかげた話でしょう?」
「あんた、一体どのくらいの年月を舟の上ですごしているんだ?」
「さあ」と船頭は首をひねった。
「初めのうちは日が昇ってくるのを数えていましたが、だんだんそれも面倒になったんでね。おそらく、普通に生きていたらとっくに寿命を迎えているころだと思いますが」
「そんなに長い間……」
若者はこみ上げるものを感じ、口を押さえて水面に顔を近づけた。すると、何だかよくわからない巨大な黒い影が、小舟のすぐそばを悠々と囲むように泳いでいるのが見えた。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど」
「ああ、少し酔っただけだ。寒くなってきたな」
「島に近づいている証拠ですよ。ほら、遠くから見るとぼんやりと白くかすんで見えたでしょう? あれは、島の周りの気温が低くて靄が発生しているせいなんです。もう少しの辛抱ですよ」
「服が濡れているせいだ。最初にあんな水しぶきを浴びせられたりしなければ……。しかし、これはまるで三途の川だな。俺は冥途へ向かっている途中なんだろうか」
「よく言われます。けど旦那、ここは川じゃなくて海だし、向かっているのは冥途じゃなくて帰らずの島ですよ。島の内側がどうなっているのか、実際に見た人以外には誰も知りません」
「ああ、そうだったな」
若者は脇差に手を当て、深い呼吸をした。すると、少しだけ気分が落ち着いた。
「ところで旦那、もしもまだ上陸するのは気が進まないというなら、私と役割を交換するのはいかがでしょう?」
「何? 俺が船頭を引き継ぐということか?」
「そうです」船頭は真剣な眼差しでうなずいた。「もし、旦那が同意してくれるならの話ですけど」
「しかし、お前はひょっとしたら女房に再会することになるかもしれないと恐れているんじゃなかったか?」
「たしかに、長らくその恐怖はありました。けれどこの頃は少し変わってきたんですよ。長生きしすぎたせいでしょうかねえ。時折、無性にあいつの顔が懐かしくなるんですよ。これだけ長いこと待たせたんだから恨まれているに違いないし、どんな仕返しをされるかわかったもんじゃないんですが、それでも会いたいと思い始めている。切っても切れない縁ってやつですかねえ。永遠の愛なんて気安く誓うもんじゃないと心底思いますよ。で、どうなんです?」
「俺は……」
突然の申し出に若者は戸惑っていた。
船頭は笑みを浮かべ、両腕を広げた。
「なあに、そんなに思い悩むことはないですよ。とりあえず今回だけは私を見送って、やっぱり自分も島に行きたいと思ったら、誰か適当な人に櫂を渡せばいいんです。そしたら、旦那も島に上がってくればいい」
「ふむ……」
若者は顎に手をやった。船頭の言うことももっともだ。しかし、何か裏があるのではないかと疑ってしまう。
「さっきお前が言っていた、稼ぎがいいというのは、永遠の命が手に入るということか?」
「その通り」と船頭はうなずく。「飲み食いしなくとも生きていけるということは、一生分の食料を与えられているのと変わりませんからね」
「そうか? 特に腹が減らずとも、うまい飯や酒が恋しくなることはあるんじゃないのか?」
「まあ、多少はね。でも、島へ向かう連中というのは、たいてい大事な荷物や食料品を持参しているものです。分けてもらうか、奪い取ればいいんですよ。見たところ旦那は腕に覚えがありそうだ。あてずっぽうだが、これでも大勢の人間を観察してきましたからね」
「うむ、間違ってはいないが……俺はそんな卑怯なことはしない」
「こりゃ失礼。ま、できなくはないって話です」
「では、客というのは、しょっちゅう現れるものなのか?」
「うーん、まちまちですね。島から帰ってきたらもうそこで待っていたということもあるし、何日も、下手したら何十日も人っ子一人来ないってこともあります。そんなときは、浜辺でごろごろしていればいいんですよ。舟から離れなければ、体を鍛えていても、書物を読んでいても、砂の城を作っていてもいいんです。海の怪物も浅瀬までは襲ってきませんから」
若者は笠の下の船頭の顔をじっと観察した。嘘をついているようには見えない。あるいは、噓をつくことに相当慣れているのかもしれない。
「……よし、お前の提案に乗ろう」
「えっ、やった! 本当ですか旦那!?」
船頭は飛び上がって抱き着こうとしたが、目にもとまらぬ速さで若者にねじ伏せられてしまった。
「あいててて……は、離してくだせぇ!」
「急に飛びかかったりするからだ」
若者はうつ伏せに倒れた船頭の腕から手を放した。
「それで、どうしたら俺は船頭になれるんだ?」
船頭は肩を押さえて軽く回した。
「特別なことは何も。ただ、この笠と櫂を受け取ってくださればいいんです」
「それだけか?」
「へえ」
船頭は笠の紐をほどいて外し、櫂とそろえて恭しく差し出した。
「お前、なんだか一段と腰が低くなっていないか?」
「そりゃもう、この労役から解放してくださる方ですから。それに、あんな技を見せられちゃ、自然と腰も引けてきます」
「客が船頭にへこへこしてちゃおかしいだろ」
「大丈夫ですよ。どうせ人の目なんてありゃしませんから」
若者は小さくため息をついて、笠の紐を結んだ。そして櫂を握ってみると、先ほどまでの気色の悪さは消し飛び、たちまち爽快な気分になった。若者は驚いて手の中の櫂を見つめた。
「すごいでしょう? これが船頭の特権です」
「たしかに、こりゃとんでもない報酬だ」
若者は感心すると同時に不気味に思った。人知の及ばぬ代物に手を出してしまったことを早くも後悔していた。
若者の体調がすこぶる快方に向かったのとは反対に、元船頭はだんだん血色が悪くなっていくようだった。すぐに体勢を保てなくなり、よろけてうずくまった。
「おい、大丈夫か」
「ご心配には及びません。本来の姿に戻りつつあるだけです」
笠と櫂を手放した男は、みるみるうちに瘦せ細り、顔には深いしわが刻まれていった。
「もうしばらく船頭として乗っていたほうがいいんじゃないか?」
若者が怖れおののいて気遣うと、男は首を振った。
「失った時間を取り戻しているのですから、いいんです。しかし、もう少し早くこうしておくべきでした。急すぎる変化に体がついていかないようだ」
男はごほごほと咳きこんだ。若者はしゃがんで肩を支えた。骨と皮ばかりの薄い体だった。
「しっかりしろ。あとどのくらいで着く?」
男の髪の毛は色が抜け、ほとんど真っ白になっていた。
「もう間もなく……死ぬ前にたどり着けますかねえ?」
周囲の霧はいっそう濃くなり、もはやどこに目的の島があるのかも見通せなくなっていた。しかし、小舟は着実に一定の方向に突き進んでいく。
「寒い……寒い……」
男はもう老人と呼んでも差し支えない風体になっており、筋張った手で自分の両肩をつかんでがたがたと震えていた。
「もう少しの辛抱だ。ほら、これをつかめ」
若者は櫂を横倒しにし、老人の手を取って握らせた。すると、わずかだが全身の震えが和らいだ。
「申し訳ねえ。俺はあんまり長いことこいつの力に頼りすぎて、自分のもろさをすっかり忘れちまっていたようだ」
「つらいならしゃべるな。ゆっくり息をしろ」
しかし老人はしわがれた声で話し続ける。
「最後に乗せた客が……あんたみたいな人で幸運だった……俺が……言うのもなんだが……気が済んだら、こんなところは……さっさと抜け出したほうがいい……」
「わかった。肝に銘じておく」
老人の目は白く濁り、もう若者の姿は映っていないようだった。何かを探すように、枯れ枝のような手が宙をさまよう。
「……トキ……トキ、待ってくれ!」
「おい、櫂から手を離すな」
老人の耳に若者の声は届かず、見えない何かを追いかけて手足をばたつかせる。小舟がちゃぷちゃぷと音を立てて揺れた。若者は老人が海へ飛びこむのではないかと恐れ、胴のあたりを押さえつけた。
「海に落ちたら魚に喰われるぞ!」
「畜生、放せ! 放しやがれ!」
老人はどこにそんな力が残っていたのか、若者の腕力をもってしても手に余るほどの怪力で暴れた。はずみで櫂が吹っ飛び、暗い海に沈んでいった。
このままでは転覆しかねない……若者がそう感じ始めたとき、小舟の先がごつんと何かにぶつかった。霧のせいで何も見えないが、どうやら例の島へ到着したらしい。
若者は老人の体から手を放し、その場でへたりこんだ。
突然自由の身になったせいで老人は小舟の外に転がり落ちたが、そこは確かに陸地らしく、岩場に足を取られながらよたよたと進んでいく。その間にも、老人の体からは何かが絶えず蒸発していた。
「トキ、トキ、待たせてすまない」
妻の名を呼びながら老人はよろけて倒れこみ、そして動かなくなった。
「おい、大丈夫か」
若者が声をかけたが返事はなく、まるで乾いた砂の城が崩れていくように、老人の体は白い灰と化して風と消えた。あっという間の出来事だった。
若者はその砂塵の近くに、つかの間白い手首が浮かんでいるのを見たような気がしたが、まばたきをするともうなくなっていた。
強い疲労感とともに猛烈な眠気に襲われ、若者は目を閉じた。やはりここは普通ではない。こんなところに来るべきではなかった。怪しげな噂に飛びつかず、自分の足でもっと遠くへ逃げる道を選んでいれば……眠りに落ちる前の最後の記憶は、そんな後悔の念だった。




