第66話:相互デッドロックと優先処理(プライオリティ)の接吻
属性定義の融解という、存在そのものを消滅させかねないタイプ・エラーをロザリアの「不変の輪郭(クラス・定義)」によって乗り越えた王国軍。ウロボロスの鉄路は、世界の墓標のさらに深部――第四層へとその黒鋼の楔を穿ち進めていた。
しかし、第四層へと進入した瞬間、超弩級列車『ガルガンチュア』を、これまでの激しい嵐や侵食とは全く異なる「異常な静寂」が襲った。
「……止まった? いや、機関は最大出力のままだ。レールも、車輪も生きている。なのに、一ミリも前に進まねぇ!」
操車室のバルドが、狂ったようにレバーや計器を叩きながら絶叫した。
窓外の景色は、灰色の一切の起伏がない空間。前方には、これまで打倒してきたはずの「旧帝国の巨大魔導兵器」「神聖教国の聖杯の幻影」「ハンザの黄金の防壁」が、実体を持たない透過したホログラムのように道を塞いでいた。
進もうとすれば、前方の幻影が列車のリソースを要求して進路を塞ぐ。
戻ろうとすれば、後方の敷設されたレールが「存在の確定」を要求して退路を塞ぐ。
すべての行動、すべての魔力流動、さらには兵士たちの「一歩歩き出そうとする意志」までもが、何かに衝突したまま完全に膠着していた。
「殿下、通信および各部隊の行動が完全に停止状態に入りました」
戦略室のガイウスが、彫刻のように静止した姿勢のまま、辛うじて口先だけを動かして報告する。
「攻撃を仕掛けようにも、こちらの攻撃命令の処理が、敵の防御処理の完了を待ち、敵の防御処理はこちらの攻撃の発生を待っている……。あらゆる因果が、互いの終了を待ち合って永久に動かない状態です」
「あはは……! これ、究極の『お預け』だね」
ルナもメスを構えた形のまま硬直していた。
「ボクがメスを振り下ろすには時間が進まなきゃいけないのに、時間が進むにはボクがメスを振り下ろし終わらなきゃいけない。思考が完全に噛み合ってロックされちゃった!」
中央演算室のシートで、アルスは右手の【掌握の刻印】を微かに明滅させていた。彼の超人的な頭脳は、この異常現象の正体を瞬時に見抜いていた。
「……排他制御のエラー。多重デッドロック(Deadlock)だな」
世界が、これまでの戦いで生じた「歴史の残滓(破棄されたデータ)」をゾンビのように呼び出し、アルスたちの進行プロセスと衝突させているのだ。互いが互いのリソースを占有し、解放を待ち続ける無限の膠着状態。アルスがこれを解こうと演算スレッドを立ち上げるたび、世界のシステムはそのスレッドに対しても「処理待ち」のロックをかけてきた。
アルスの思考が、一歩、また一歩と、冷たい膠着の沼に引きずり込まれていく。
思考が停止すれば、それは精神の死を意味する。脳細胞の電流すらも、次のニューロンの伝達を待ち合って静止しようとしていた。
その、絶対零度の静寂の盤面に――強烈な「割り込み信号」が叩き込まれた。
「――お待ちなさい。私のアルス様を、そんな退屈な静寂で閉じ込めようなんて、一億年早いですわ」
凍りついた空間を切り裂いて、ロザリアの指先が、アルスの冷え切った頬へと触れた。
彼女の身体だけは、動いていた。なぜなら、彼女の行動原理は世界のシステムや因果律、処理の順番などとは全く別の次元にある「アルスへの絶対の情愛」という単一のプロトコルで動いているからだ。
「ロザリア……なぜ、お前は動ける……」
「簡単なことですわ。世界がどれほど処理を順番待ち(ロック)させようとも、私の世界における最優先処理は、いつだって『アルス様を愛すること』ただ一つ。神のシステムだろうと、私のこの想いを後回しにすること(待たせること)なんて不可能ですもの!」
ロザリアはアルスの胸元にしがみつくと、彼の首筋に両腕を回し、その潤んだ瞳を情熱的な光で燃え上がらせた。
彼女の胸の奥から放たれたのは、周囲の膠着したスレッドを物理的に粉砕する、超高密度の「強制介入魔力」。彼女は自身の魂の全リソースを一点に集中させ、アルスの脳にかけられていたデッドロックの鎖を、内側から爆破するように解除していった。
「私を処理しなさい、アルス様。世界なんか後回しにして、いま、私だけを演算めるのです!」
ロザリアの狂おしいほどの愛の叫びが、アルスの停止しかけていた脳細胞に、爆発的な電流を走らせた。
彼女という最高の例外処理。世界がどれほど強固なロックをかけようとも、彼女の愛という「絶対優先権」の前では、すべての処理順序が強制的に書き換えられる。
アルスの瞳に、一瞬にして鮮烈な絶対論理の光が蘇った。
「……了解した、ロザリア。お前が優先順位の頂点を書き換えてくれた。ならば、この膠着した世界を、一瞬で強制終了してやろう」
アルスはロザリアの腰を強く抱き寄せ、【掌握の刻印】から、デッドロックを解読するための「グラフ理論の数式」を空間へと放射した。
$$\Delta G = (V, E) \quad \Longrightarrow \quad \text{Cycle Detection} \quad \Longrightarrow \quad \forall e \in \text{Cycle}, \quad \text{Release}(e)$$
「システム・ロック強制解除。互いを縛り合うすべての無駄なプロセス(過去の残滓)を、我が王国の論理を以て一斉に消去する」
アルスとロザリアの共鳴した魔力が、ガルガンチュアから網の目のような青白い光刃となって放たれ、道を塞いでいた旧帝国や教国の幻影を次々と一刀両断にしていった。
パリン、パリン、パリン!! と、空間を縛っていた目に見えない鎖が砕け散る音が響き渡る。
その瞬間、膠着していた列車の車輪が猛烈な勢いで回転を始め、ガイウスの剣が動き、ルナのメスが空を切った。すべての処理(時間と行動)が、爆発的なスピードで正常に流れ始めたのだ。
「うおおお! 動いた! 動いたぞ王子! 第五の楔、打ち込んでやるぇぇ!!」
バルドが雄叫びを上げながら超弩級レバーを引き絞ると、ガルガンチュアの前面から、これまでにないほど巨大な黒鋼のレールが、轟音と共に灰色の荒野へと突き刺さった。世界のデッドロックを粉砕し、ウロボロスの鉄路はまた一歩、世界の深淵へとその版図を広げた。
「……はぁ、ふぅ……っ」
世界の膠着を力任せに割り込み解除したロザリアは、極限の精神疲労のあまり、アルスの胸の中で激しく息を乱していた。その白い肌は、自身の熱量をすべて割り振ったせいで、微かに桜色に上気している。
アルスは彼女の華奢な身体を両腕でしっかりと抱きすくめると、彼女の耳元で、酷く低く、しかし熱い声で囁いた。
「ロザリア。お前の言う通りだ。私のシステムにおいて、お前に関する処理以上に優先される事象など、この世界のどこにも存在しない」
アルスはロザリアの顎を優しく持ち上げると、まだ息の荒い彼女の唇に、自身の唇を深く、割り込むように重ね合わせた。
それは、世界のいかなるルールをも強制終了させる、二人だけの「絶対優先処理」。
周囲の灰色の空間が王国の青い管理コードで満たされていく中、二人の体温だけが、確かな熱を持って混ざり合う。世界の余命があと八年という極限のカウントダウンの中、アルスとロザリアの、理性を超越した愛のシステムは、世界そのもののバグを新秩序(Order)へと書き換えながら、ついに『世界の墓標』の最深部へと肉薄していく。




