第64話:因果の砂時計と不変の錨
結晶の嵐が嘘のように引き、ただの無害な砂へと変わった大地の上に、王国軍の第二前線拠点『ベース・アルファ』はわずか数十時間でその堅牢な姿を現していた。バルドが設計した自動建築魔導機が、地響きを立てながら黒鋼の防壁を次々と組み上げていく。その中心を貫くように敷設された『世界再構築鉄路・ウロボロス』のレールは、鈍い金属光沢を放ちながら、さらにその先――世界の墓標の第二層へと力強く延伸されていた。
先の激戦で世界の結晶化プログラムからロザリアに救われたアルスは、ガルガンチュアの最深部にある中央演算室のシートに深く腰掛け、新たな観測データに目を走らせていた。
「……結晶化の次は、時間の不連続性か。世界の自己防衛システム(免疫プログラム)にしては、少々悪趣味なバグだな」
アルスの冷徹な声に、室内のホログラムディスプレイが呼応するように明滅する。
画面に映し出されていたのは、最前線を偵察中だったガイウスの黒鋼騎士団から送られてきた、到底信じがたい戦闘記録ログだった。偵察用の高速魔導ドローンが、前方数キロメートルの空間で、突如として「数時間後に大破するはずの自商の残骸」と衝突し、因果関係を無視して爆発四散したという不可解なデータ。
「殿下、前方の領域は空気中の魔力密度が限界を超え、時間のタイムスタンプ(刻印)が完全に乱数化しています」
通信画面の向こうで、ガイウスが重厚な兜の隙間から険しい表情を覗かせた。
「我が騎士団の歩兵たちも、一歩進むごとに『数秒前の自分』と衝突しそうになる、あるいは『数分後の未来の攻撃』によって理由もなく負傷するという怪現象に見舞われています。物理的な盾では、防ぎようがありません」
「あはは! 面白いねガイウス! 過去の自分を自分で解剖したら、今の自分はどうなっちゃうんだろう? 因果律のパラドックスで、存在ごとシステムエラーを起こして消えちゃうのかな?」
ルナが医療器具をガチャガチャと鳴らしながら、狂気的な笑声を通信に割り込ませる。
「ルナ、悪ふざけをしている時間はない。バルド、列車の時間防壁の出力は?」
アルスが問いかけると、操車室のバルドから焦燥の混じった声が返ってきた。
「駄目だ王子! ドワーフの伝統的な魔導時計が全部逆回転を始めやがった! 列車そのものの『存在時間』が過去と未来に引っ張られて、装甲の分子結合がガタガタになってやがる。このままだと、進むことも戻ることもできずに、時間の砂に押し潰されるぞ!」
ガガガギギギ……!!
不気味な金属疲労の音が、ガルガンチュアの巨体を震わせた。窓の外の景色が、一瞬で昼から夜へ、そして千年前の緑豊かな古代の風景へと目まぐるしく変転し始める。時間の因果律そのものが崩壊しつつあるのだ。
「……チリッ」
アルスの脳細胞に、再び致死量の過負荷が襲いかかる。現在・過去・未来の無限の視覚情報が、ハイドロのように彼の脳内へ直接流れ込んできた。脳が沸騰するような激痛。刻印を展開しようにも、術式を発動したという「原因」が、時間が逆流することによって発動前の「結果」へと書き換えられ、ハッキングが不発に終わってしまう。
「アルス様……! 私を、貴方の『絶対の時間』へと繋ぎ止める錨にしてください!」
その声と同時に、背後から滑り込んできたロザリアの両腕が、アルスの首筋を強く、愛おしそうに抱きしめた。
彼女は防護服を脱ぎ捨て、薄いドレス姿のまま、自身の全体重をアルスへと預けていた。ロザリアの胸の奥から放たれたのは、絶対零度の氷属性魔力。しかしそれはただの冷気ではなく、アルスの周囲の「時間(分子運動)」を極限まで減速させ、世界の因果の嵐から彼の存在を強制的に隔離する、絶対時間維持の術式だった。
「ロザリア……お前、自分の魂の時間(寿命)を削ってまで、私を固定しているのか……!」
「構いませんわ! 世界がどれほど過去や未来へ時間を引き裂こうとも、私のアルス様への想いは、一ミリ秒たりとも揺らぎはしません! 私が『現在』に居続ける限り、貴方の論理もまた、常に『現在』であり続けますわ!」
ロザリアはアルスの耳元で、凍てつくような、しかし世界で一番熱い愛の言葉を囁いた。彼女の確かな心音の波長が、アルスの乱れていた思考回路の同期を力任せに正常化していく。彼女の変わらない愛。それこそが、因果律の崩壊したこの世界において、唯一バグを起こさない「絶対の定数」だった。
ロザリアという最高のプロセッサ(錨)を得たことで、アルスの脳内のノイズは一瞬にして一掃された。時間の逆流による術式の不発を、ロザリアの固定魔力が完全に相殺している。
「よくやった、ロザリア。お前が私を『いま』に繋ぎ止めてくれるなら、千年の時間の歪みなど、ただの単純な一次方程式に過ぎない」
アルスは右手の【掌握の刻印】を天空へと掲げ、狂い、荒れ狂う時間の数式を、自身の圧倒的な論理で上書き(オーバーライト)していった。
「システム・クロック同期。この領域の時間を、我が王国の標準時(現在)へと強制収束する」
アルスとロザリアの共鳴した刻印の光が、ガルガンチュアから巨大なドーム状の青白い波動となって放たれた。その波動が接触した瞬間、目まぐるしく変わっていた周囲の景色がピタリと停止し、元の紫色の空と黒鋼のレールが敷かれた「現在」の荒野へと引き戻された。
バラバラに砕け散るはずだった魔導ドローンの残骸も、未来の負傷という怪現象も、すべてが本来の時間軸へと整然とファイリングされ、世界のバグは完全に消滅した。
「……ふう、はぁ……」
時間の砂嵐を完全にデバッグし終えた瞬間、ロザリアの身体から一気に力が抜け、彼女の身体が崩れ落ちそうになった。アルスは素早く振り返り、彼女の細い腰を自分の両腕でしっかりと抱きとめた。ロザリアの額には冷たい汗が浮かび、その身体は自身の氷の魔力を酷使したせいで、凍えるように冷たくなっている。
アルスは躊躇うことなく、ロザリアを自分の胸へと強く抱きしめ、自身の体温で彼女の冷え切った身体を包み込んだ。
「ロザリア、見事なサポートだった。お前が私の『錨』になってくれなければ、私は今頃、時間の狭間に消えていただろう」
アルスはロザリアの青白い頬を優しい手つきで撫で、その潤んだ瞳を見つめた。彼の瞳には、かつての冷酷な計算機のような光はなく、ただ一人の最愛の女性に対する、深く切ないほどの情愛が満ちていた。
「アルス様……。私、貴方の隣にいられるなら、時間の終わりまでだって耐えてみせますわ」
ロザリアはアルスの胸に顔を埋め、その背中に愛おしそうに腕を回した。
「時間の終わりなど来させはしない。私とお前で、この世界の時間を新しく書き換えるのだからな」
アルスはそう言うと、ロザリアの顎をそっと持ち上げ、二人の唇を静かに、しかし確かな熱量を持って重ね合わせた。
外では、バルドたちの歓声と共に、第三の楔となる黒鋼のレールが力強く大地へと打ち込まれていた。世界の寿命があと八年という極限のタイムリミットの中、アルスとロザリアの愛と論理のシステムは、いかなる因果の歪みをも粉砕し、世界の深淵へとその鋼鉄の車輪を進めていく。




