第56話:西からの影と金貨の包囲網
神聖レグルス教国がエリュシオン王国の『東部第一生産特区』へと再編成されてから、わずか数週間。祈りと盲信に塗りつぶされていた教都は、いまや昼夜を問わず蒸気と鉄の音が響き渡る、巨大な近代的生産拠点へと急速にその姿を変えつつあった。
司祭たちが手動制御オペレーターとして汗を流す魔動炉からは、安定したエネルギーが大陸横断鉄道のレールへと供給され、王国の支配領域はかつてない強固なものとなっていた。
しかし、東の巨大な「バグ」を消去したアルスの前に、今度は西の大地から、目に見えない、しかし極めて致命的な「悪意の波形」が押し寄せていた。
王都の中央演算処理室。青白いホログラムディスプレイが幾重にも重なり合う空間で、アルスは不快そうに眉をひそめていた。
彼の手元で点滅しているのは、王国の公式通貨である『エリュシオン・ゴルト』の為替レートと、各種物資の流通価格を示す無数のグラフだった。そのすべての数値が、ここ数日、不自然な放物線を描いて急落している。
「……幼稚だな。武力で勝てないと悟るや否や、市場に偽造通貨を流し込み、こちらの信用度を内部から腐食させようとするとは。西の守銭奴どものやりそうなことだ」
アルスは冷徹な声で吐き捨て、右手の【掌握の刻印】を操作した。画面に浮かび上がったのは、西の『自由商業都市連合』の紋章――天秤と金貨をあしらった意匠だった。
彼らは独自の強大な経済網を誇り、大陸の富の半分を握ると豪語する、純粋な資本主義の怪物たちだ。
彼らにとって、アルスが推し進める「物流の完全統制」と「価格の絶対平準化」は、自分たちの暴利を貪る特権を根底から覆す、最も排除すべき『最悪のシステム』に他ならなかった。
「アルス様、ハンザは単に通貨を売り崩しているだけではありませんわ。我が国の主要な輸出製品である黒鋼や精製魔石に対して、西側の全交易ルートで『不当な高関税』と『臨時の差し押さえ命令』を発令したようです。これにより、西側との貿易に従事していた商会が次々と倒産に追い込まれ、市場にパニックが広がっています」
ロザリアが、最新の市場流通データをホログラムで提示しながら、アルスの傍らに歩み寄った。彼女の纏う深い漆黒のドレスは、今や王国の最高財務官としての冷徹な美しさを放っている。だが、その瞳に宿る光は、アルスに対するどこまでも深い信頼と慈愛だった。
ロザリアはそっとアルスの肩に手を置き、自身の清冽な氷属性の魔力を彼の身体へと滑り込ませた。東での激戦、そして休む間もなく始まった西との経済戦。
アルスの脳細胞は常にフル稼働しており、その熱量を感知したロザリアは、彼が何も言わずとも、完璧なタイミングでその脳を優しく冷却し、保護するようになっていた。
「すまない、ロザリア。お前の冷却機能のおかげで、私の思考領域の処理能力が常に最大値を維持できている」
アルスはロザリアの細い手に自分の手を重ね、その温もりを愛おしそうに確かめた。
「ふふ、お礼には及びませんわ、私の大切な管理者様。ハンザの連中は、金貨という名の『数字』で世界を支配している気になっていますが……彼らは決定的な違いを理解していません。彼らの数字は人間の『強欲』という不確定な感情で動くバグだらけの代物。ですが、アルス様の数字は、世界を真に豊かにするための『絶対の論理』ですもの。負けるはずがありませんわ」
ロザリアのその言葉に、アルスは微かに唇の端を上げた。それは、かつての冷酷なマシーンのような王子からは決して見られなかった、確かな人間としての「矜持」と「情愛」が混ざり合った笑みだった。
「その通りだ、ロザリア。経済とは、人間の欲望という原始的なアルゴリズムが引き起こす、極めて不完全なゲームに過ぎない。バグが多いシステムなら、その脆弱性(脆弱性)を突いて、こちらから強制的に初期化するまでだ」
アルスは【掌握の刻印】を力強く握り締め、演算処理室にバルド、ガイウス、ルナの三人を呼び出した。
「王子! 西の商人どもが、俺たちの新型蒸気機関車の部品に使う特殊合金の輸出を止めやがった! あいつら、金さえ積めば何でも売るんじゃなかったのかよ!」
バルドが工具を床に叩きつけんばかりの勢いで憤慨する。ガイウスもまた、重苦しい表情で腕を組んだ。
「殿下、西の国境付近では、ハンザが雇った大規模な傭兵団や私兵軍が、物資の密輸ルートを完全に封鎖しています。力ずくで突破することは可能ですが、それをすればハンザ側から『不当な侵略行為』として国際的な大義名分を与えてしまうことになります」
「あはは、だったらさ、ハンザの主要な大富豪たちの家に、ボク特製の『強欲を増幅させて脳の血管を破る毒』でもバラ撒いてこようか? そうすれば、勝手に遺産相続争いで自滅してくれるよ?」
ルナが禍々しい笑みを浮かべて提案するが、アルスは静かに手を挙げてそれを制した。
「必要ない。武力行使も、暗殺も、ハンザという経済の怪物に対しては根本的な解決にならない。彼らの本質は『信用』という実体のない幻想だ。なら、その信用そのものを、我が国のシステムで上書きする」
アルスが指を鳴らすと、ホログラムディスプレイに全く新しい、複雑な数式が展開された。
それは、金貨や銀貨といった物理的な貴金属に依存しない、王国の強力な物流網そのものを担保とした、全く新しい『暗号管理型通貨システム(ロジスティクス・トークン)』の設計図だった。
「ハンザがどれだけ金貨を集めようとも、我が国の鉄道が運ぶ食糧、燃料、鉄鋼がなければ、彼らは金貨を齧って飢え死にするしかない。これより、西側諸国に対する『全面的な資源禁輸措置』を発令する。同時に、我が国の新通貨を導入し、エリュシオンの流通網を利用するすべての商人に、ハンザの金貨を破棄してこの新通貨での決済を強制する」
アルスの冷酷な、しかし一寸の狂いもない完璧な経済戦略に、一同は息を呑んだ。それは、ハンザが仕掛けてきた「金貨の包囲網」を、逆に「物理的な資源の包囲網」で完全に包み返し、窒息させるという、究極の兵糧攻めだった。
「私たちは、彼らの金を奪うのではない。彼らの持つ『金の価値』そのものを、ただのゴミへと変えるのだ」
アルスの宣言に、バルドたちは不敵な笑みを浮かべ、それぞれの持ち場へと散っていった。
再び二人きりになった演算処理室で、アルスは窓の外を見つめた。西の地平線の向こうには、大陸最大の富を誇るハンザの都市群が広がっている。アルスはそっとロザリアの腰を引き寄せ、その華奢な身体を自分の胸へと閉じ込めた。
「ロザリア、これからの経済戦は、血は流れないが、これまでのどの戦いよりも冷酷なものになる。お前のその温もりがなければ、私は本当に、ただの血も涙もない計算機になってしまうかもしれない」
アルスの少しだけ寂しげな、しかし切実な言葉に、ロザリアは彼の胸にそっと顔を埋め、背中に腕を回した。
「構いませんわ、アルス様。貴方がどれほど冷酷な計算機になろうとも、私はその計算機を動かす唯一の特権を手離しません。……貴方の冷たさは、世界を救うための優しさだと、私が一番よく知っていますから」
ロザリアは顔を上げ、アルスの唇に、静かに、しかし深い情熱を込めて自身の唇を重ねた。
繋がれた二人の手の中で、【掌握の刻印】が静かに、しかし圧倒的な輝きを放ち始める。西の自由商業都市連合という、強欲に塗れた古い怪物に向けて、王国の「数字による新秩序」が、いま容赦なく牙を剥いた。




